朗読「続意識の流れ 最後は瞑想です」テキスト

「続  意識の流れ 最後は瞑想です」テキスト

 

はじめに

二〇〇七年に、本書の初版を出版して以来、約十年の歳月が経とうとしています。その間、二〇一〇年五月に『意識の流れ』増補改訂版が出版されたことに伴い、その年の十二月には、本書の改訂版を田池留吉氏との共著で出版させていただきました。
そして、このたび、絶版となっていました本書を再度世に送り出そうというお話をいただきましたので、私はこの機会に改訂版を読み返し、所々加筆しながらの嬉しい作業の時間をいただきました。ありがとうございました。
ところで、私達に真実の波動の世界を伝え続けてくれた田池留吉氏は、昨年二〇一五年に他界されましたが、それはあくまでも形の上でのお話です。田池留吉氏という姿、形こそ、もうここにはありませんが、何ら変わることなく伝え続けてくれている波動の世界は実在します。このことを、どうぞ、あなたもご自分の心で感じられるようになってください。
本書は、その真実の波動の世界をあなたの心で知っていくための手順を簡潔にまとめています。つまり、正しい瞑想をするにあたっての実践本です。
従って、まずは、『意識の流れ』増補改訂版をしっかりと読んでいただくことをお勧めします。その上で、私もやってみよう、真摯に真剣に自分の人生を振り返り、自分と向き合っていこうと思われたならば、本書に沿って、ご自身の実践をお願いしたいと思います。
さて、今は亡き田池留吉氏ですが、その意識の世界からは、二十四時間、三百六十五日絶えることなく波動が流れています。二〇一〇年十二月出版の改訂版は、田池留吉の意識の世界が肉という形を持っているときに、その意識の世界に心を向けて波動を受け、それを言葉に変換して出来上がったものです。そして、今は肉という形はここにはありませんが、先にも述べましたように、田池留吉の意識の世界から伝わってくる波動に何ら変わりはありません。私は本書、復刻版『続 意識の流れ』もまた、その波動をお伝えしていると確信しています。
それでは、これからともに田池留吉の意識の世界が語る方向に心を傾けてまいりましょう。
私が三十年余りの年月をかけてお伝えしてきたことを、現実のものとしてあなたの心で分かっていただくには、ただあなたの実践を必要とするだけなのです。本当のことは、自分自身の心の体験を通して、自分の心で分かってこなければならないのです。
また、心で分かるために、今のあなたがあり、あなたの人生があることを、私達はお伝えしています。
『意識の流れ』と本書に、私達がお伝えしたいことは、すべて網羅しています。どうぞ、この二冊を繰り返し読んでいただければと思います。私達がお伝えしたいこととは何か、ポイントを外さずに読んでいただければ幸いです。さて、前置きはこのくらいにしまして、本題に入っていきたいと思います。先に申し上げましたように、『意識の流れ』に、私が申し上げたいことは、すべて網羅しておりますが、今回は、「瞑想」という観点から、真実の世界をもう少し語ってみようと思い、このように『意識の流れ』の続編という形にさせていただきました。
本書の副題に、「最後は瞑想です」、そして、「正しい瞑想をしましょう」と付けさせていただきました。
私達は、自分の思いを伝えたり、考えを述べたりするときに、通常、言葉というものを使用します。以心伝心ということもありますが、伝達手段は言葉です。そして、それらにはそれぞれ万国共通の意味合いがあります。しかし、同じ言葉を用いても、私がお伝えしようとすることを正しく伝達するには限界があって、言葉では的確に表現できない場合があります。
例えば、愛であるとか、優しさとか温もりであるとか、幸せ、喜びであるとかというものは、辞書で定義づけられているものと、私がお伝えしているものとは違います。全く異なるものであるとは言いませんが、真の意味合いが違うのです。
そのことを、あなたの頭ではなく心でお分かりいただくには、ひとつひとつ手順を踏んでいかなければならないのです。そして、最後に行き着くところは、瞑想なんです。それも「正しい瞑想です」ということを伝えたいために、私は、ここに本書を記していこうとしています。
真実の世界が、心で感じられたならば、もう言葉は必要としません。そして、言葉を発しながら、実は、私達は波動を流していることを感じてきます。その波動が明るいか暗いか、または荒い波動なのか、それとも柔らかいものなのか、そのような様々なことが、自分の心で感じられてくるのです。
言葉は優しいのに、あるいは態度は丁重なのに、それらとは裏腹なものを感じたりするのは、言葉や態度では、決して誤魔化せない何かがあるからではないでしょうか。
私は、その世界を、波動の世界と伝えてきました。
波動の世界とは、目に見えない世界のことを言いますが、私はその世界が、実在することを伝えてきました。いいえ、目に見えない世界が本物の世界であって、目に見える世界は、その世界の影の世界であることを伝え続けてまいりました。
では、その目に見えない世界を、どのように知っていくのかということですが、それは、「あなたの心で知っていってください。あなたの心でしか分からない世界です」ということも、重ねて申してきました。
本当の世界を心で知っていただくために、私は、セミナーを三十年余りにわたり開催してきたのです。
そのセミナーのこと、そして、その様子の一端は、本文に掲載しておりますので、学びの推移および概略は、お分かりいただけるかと思います。
しかし、何よりも大切なことは、『意識の流れ』の本文に繰り返しあるように、「あなた自身の心を見る」ことに尽きるのです。そして、あなた自身を動かしているエネルギーの実体を知っていくことにあります。
そのことを知っていかなければ、あなたは、なぜ生まれてきたのか、何をするために今があるのかということが、分からないのです。そして、そのことが分からなければ、どのように生きていけばいいのか、どのように死んでいけばいいのか分からなくて、結局、あなたは、本当の人生にも、本当の喜び、幸せにも、本当の愛、優しさ、温もりにも出会えないということになります。
自分の心を見て、自分の出すエネルギーの実体を知って、さらに、正しい瞑想を通して真実を知っていくことが本当の人生であると、私は確信しています。
私のこの思いを、「本当のことを知りたい」「人生とはいったい何だろうか」と真剣に考えている人達に、本書を通して、真っ直ぐにお伝えすることができれば幸いだと思っています。
私達は、一人でも多くの人との出会いを心待ちにしています。『意識の流れ』ともども本書も、どうぞ末永く、あなたの側に置いて、これからのあなた自身の指針にされることを、心より願っています。

二〇一〇年十一月  田池 留吉


第一章 私は、田池留吉と申します

 

この本は、その表題の通り、『意識の流れ』という本の続編です。
私は、これまで三十年余りの間、主として日本各地で、セミナーを開催させていただいてきました。
そのセミナーを通して、お伝えしたかったことは、

「人間の本当の姿は意識、波動、エネルギーです。」
「人間の本当の姿は目に見えません。」
「目に見える世界を本物とする思いから、目に見えない世界を本物とする思いへ、あなたの意識の世界を転回していきましょう。」

ということです。
「私達の時間は永遠です。生まれてから死ぬまでが、私達の時間ではありません。私達の時間は、死んで途切れることはなく、ずっと続いています。その時間の中で、今、ひとつの肉体を持っているだけです。」
ということを、心で知っていただきたいと思いながら、私は、セミナーを続けてまいりました。
そして、その趣旨の集大成として、『意識の流れ』という本を二〇〇四年十二月に、その改訂版を二〇〇五年十二月に、さらに、筆を加え二〇一〇年五月に増補改訂版を出版させていただきました。
もう少し詳しい学びの趣旨および経緯は、その本で押さえておいていただければ幸いです。私は、この先、そうしていただいていることを前提にして、話を進めていきたいと思っています。
また、他にも参考となる図書を巻末に紹介していますので、併せて目を通していただければ、さらにご理解が深まるのではないかと思います。
ところで、書店には、大ベストセラーとなるものをはじめとして、たくさんの書物が並んでいます。
しかし、その中に、真実とは何か、本当のこととは一体何なのか、そのことを真っ直ぐに伝えているものがあるでしょうか。
参考になるものはあるかもしれません。
中には、元気づけられ、そして、勇気づけられる内容のものがあるかもしれません。
人間の心の奥深くを鋭く突いて、読者に何か訴えるものがあって、それなりの作品に仕上がっているものもあるかもしれません。
確かに、その時は、感動もしたし、共鳴もしたでしょう。しかし、時間が経てば、あの感動は何だったのか……。確かに、相通じるところがあって共鳴もしたけれども……、ということはないでしょうか。
感動や共鳴が長続きしないのはなぜでしょうか。
それは、それらの作品が、人間の本質に届く決定的なものを欠いているからです。
では、人間の本質とはいったい何なのでしょうか。
私は、人間の本質は、心だと、伝えてきました。
それらの書物には、表面上、問題提起があって、何かを促すようなテーマがあったとしても、もう一歩踏み込んで、
人間とは何か、
人間の本当の幸せや本当の喜びとは何か、
なぜ、人間には苦悩があるのか、
そして、幸せや喜びと苦悩には関係があるのだろうか、
といったことについて、本質を鋭く突くというところまでには至っていないと思います。
たとえ、人間の心の中を上手に描写した内容であっても、人間の本質は、心だという私の言わんとするところと、最終的には合致しないのです。
それは、どの書物も、人間を形としてとらえ、その土台の上に立って、人間像を描いているからです。
その土台の上で、人間の様々な心を、色々な角度からとらえたり、色々な味付けをしたりして、文章構成がなされているに過ぎません。
確かに、人間を形としてとらえるという土台の上で読めば、感動もするし、共鳴もする内容になっていると思います。人間の心の機微が、憎らしいほど上手く表現されていて、いい作品だと高い評価が得られる場合もあるでしょう。
しかし、です。
どんなに高い評価を得ても、そこからは、決して、真実を知ることはできないのです。
なぜならば、私達人間は、形ではなく、私達の本当の姿は目に見えないものだからです。
その観点から出発していないものは、表面上は人の心を打つとか、とらえることはあっても、本当の意味の「心」には浸透してこないのです。
一方、「人間の本当の姿は、形ではない」という土台、あるいは基盤に立って語られているものは、その内容が、人間の「心」に浸透していくにはかなりの時間を要しますが、いずれ読む人の「心」に、本物の感動と共鳴を与えていくと、私は思っています。
なぜならば、本当の自分というものを、みんなその「心」に知っているからです。
ところで、私は、心を「心」と強調させていただきました。心と「心」は違うのかと言いますと、そうです、違うのです。その違いを、いくつかの問いかけを通して、語っていこうと思います。
あなたが連想する心とは、どこにありますか。心は頭の中にある、あるいは、心は胸の中にあると思われている人も多いでしょう。
しかし、私は、「心」はあなたの頭の中にも胸の中にもありませんとお伝えします。私がお伝えしようとしている「心」とは、そのようなものではないのです。

あなたというひとりの人物がいて、その人物が「心」を持っているのではないのです。

私は、人間の本当の姿は意識、その「心」だと申してきました。言ってみれば、あなたは「心」そのものなのです。
これから、私は、あなたの頭の中にある心、胸の中にある心に訴えるのではなくて、あなたの「心」に、あなた自身に、直球を投げ入れたいと思っています。
読み進めていくうちに、心というものについて、あなたの中で、少しでも認識を改めていかれれば幸いだと思います。
心はどこにあるのか。
心とは何か。
人間とはいかなる存在なのか。
人間と心の関係は何か。
人間は、何のために生きているのか。
人間は、なぜ死んでいくのか。
このようなことに、少し思いを向けながら、どうぞ、最後までお付き合いください。
読み進めていくうちに、「うーん、そうだ」と頷いていただければ、幸いです。


ところで、特に、これは予言ではありませんが、これから世の中は、ますます混迷の度合いが増してきます。人々の心の底に眠る、狂ったエネルギーが、形に表れてきます。
同時に、天変地異の嵐が吹き荒れる時を迎えていきます。
たくさんの人達が、一瞬のうちに、その命を落としていくでしょう。その規模は、今現在の比ではありません。
もちろん、日本の国もその例外ではありません。日本各地に吹き荒れる天変地異の嵐、それは、この日本の国の存続を危うくしていくだろうと思います。
地震国、日本です。その地震のメカニズムは専門家にお任せしますが、地震の規模、エネルギーの実態は、決して専門的な分析で解明できない部分があります。
それは、地震に限りません。その他の自然現象、人的現象は、すべて意識の世界が反映されたものです。
従って、その意識の世界から、それらのものをとらえていくことをしていかなければ、なぜ、そういった現象が起こってくるのかという真のメカニズムは解明できないのです。
やがて、どれだけ人間が頭脳を働かせ、一致団結して事に当たろうとも、そして、祈りを乞おうとも、形の世界は、崩れ去っていきます。そのことを、はっきりと知っていく時がやって来るのです。

人間とは、いかなる存在か、それぞれの心に深く訴えてくる時が、遠からずやって来るのです。私達は、そういう流れの中にあります。
その流れを、私は「意識の流れ」と伝えました。
なぜ、人間は、転生を繰り返してきたのか、その答となるものが明確に示されたことは、いまだかつて一度もありませんでした。自分の本当の姿が何であるのか、つまり、真実を知らないまま、この地球上で転生を繰り返してきたのが、人間と呼ばれる生き物です。
かくいう私自身も、人生の半ばまでは、真実に疎い状態でした。真実を全く知らないまま、約半世紀を生きてきたのです。その道のりは、決して平坦なものではありませんでした。
しかし、私は私なりに色々な不思議な体験を経て、紆余曲折しながら、人生半ばにして、ようやく本当のこととは何かを知るに至りました。
これが真実だとする確固たる思いが、その時よりすでに私の中にはありましたが、まだまだ当時は、私自身も勉強の段階でした。
私は、私の人生はセミナーとともにあったと言っても、言い過ぎではないと思っています。私は、セミナーとともに進化してきたのであって、決して初めから出来上がっていたのではありません。セミナーに集い来る皆さんから、そして、私の家族から、勉強、勉強の日々を重ねてまいりました。
何分、私自身も愚かな肉を纏っていますので、それなりの時間を要したということです。
そして、人生も半ば前後から、ようやくにして、自分が生まれてきた意味、自分の本来するべき仕事に気付くようになり、私(田池留吉)というひとりの人間とは別の自分の存在を、確信するに至ったということなのです。
今、別という表現をしましたが、この別という表現は、バラバラという意味ではありません。
まさに、「私はあなた、あなたは私」という意識の世界の真実を、私自身、肉という形を通して知り得たということなのです。
つまり、今、私は、田池留吉という名前の付いたひとりの人間であると同時に、私の本当の姿は、実は目に見えないものだということ、その「肉の人間」と「目に見えない私」は、私の中でひとつだと感じています。
「肉の人間」も私ならば、「目に見えない私」も私です。しかし、どちらが本当の私であるかと言えば、それは言わずと知れたことなのです。今は、自分に肉を持たせて、自分の世界を見ている私であることを、はっきりと確認しています。
私は、よく
永遠の今ということを言ってきました。過去も未来も今この一点と重なって、それが自分に他ならないと、私は、そのような視点から、物事を見て、そして、感じてきました。
まさに、私は、今を生きています。しかしながら、今を生きるということがどういうことであるのかについては、社会通念上の意味合いとは、大きく趣を異にしていると思っています。時間は流れ去り、時は移ろいでいくけれども、私はその時間の中には生きていないという感覚なのです。
私には私の時間と空間があります。そして、その時間と空間は、実は私自身であり、あなた自身ですと、私はこのような感覚を持っているのです。
少々、話が先に行き過ぎました。元に戻します。
紆余曲折を経ながら人生半ばにして、私が、本当の私自身に気付き、なすべき仕事に気付いたその仕事とは、真実をお伝えするということでした。
そのために、私は、今世初めて肉という形を持ってきたのです。田池留吉という名前で、初めて肉を持ちました。
私には皆さんのように、過去に肉を持っていたということはありません。いわゆる、生まれ変わり死に変わるという転生の体験がないのです。
このことを、どのように受け取っていただいても結構ですが、私には、それによって、自分を特別視する思いはありません。
ただ、過去世がない意識が、肉を持ってきたということはどういうことなのか、そのことを正しくとらえていただきたいと思うだけです。
私は、「意識の流れ」という言葉を使わせていただきました。
私もあなたも、その「意識の流れ」の中にあることを、あなた自身の心で知っていただきたいのです。
もうすでに、私がお伝えしてきたことについて証人が出ています。私の言う通りに実践されていけば、どなたも本当のことが分かる、どなたも本当の喜びと幸せが分かることを、私は伝え続けてきました。
私に心を向けるとはどういうことなのか、私に正しく心を向けていけばどうなっていくのか。ぜひ、あなたが、あなた自身の証人となっていただきたいと思います。
私には、あなたを導いてあげましょうとか、あなたにパワーを授けましょうとか、そのような思いは一切ありません。
ましてや、あなたを洗脳することなど必要ないのです。

あなたを導くのは、「本当のあなた」自身であり、「本当のあなた」は喜びのパワーですと、繰り返し伝えてきました。
そこで、その「本当のあなた」に出会える方法を、順を追って記していきたいと思います。
その前に、「人はなぜ生まれてくるのか」「幸せな人生とはどのような人生なのか」について、少し考えてみましょう。


 

第二章 人は、なぜ生まれてくるのか

 

先ほど、人の心の中に眠る闇の思いが、はっきりと形になって示されていき、世の中は、これからますます混迷の度合いを増してくると申しましたが、どうでしょうか。その気配を、あなた自身、どの程度、感じておられるでしょうか。
情報に溢れている世の中の移り変わりのテンポは速いです。
人の考えや生き方、価値観も様変わりしています。
その中で、一体何を信じていけばいいのか、どのように存在していけばいいのかと問いかけてくる出来事に、それぞれが、これから何度も出会っていくと思います。
人の心の中に巣食う闇は凄まじいものがあります。
人はそこに、道徳や倫理や一般常識で縛られないエネルギーの出現を見ていくことになるでしょう。つまり、到底頭では理解できない、全く予測し得ない事態が、ある日突然起こってくるのです。
もっとも、私からすれば、そういう出来事は予測し得ないことでも、ある日突然でもないのです。その要因というか原因となるものは、それぞれに抱え持っていて、そこにある条件が整えば、そのものが表面に噴き出してくるだけだと思っています。
私は、世の中のこのような流れを「濁流」と表現してきました。今は、「激流」と言ってもいいかもしれません。
その中で、なかなか、何を信じていけばいいのか、どう存在していけばいいのか、その答となるものを、自分の中に見出すことは難しいかもしれません。
まさに、その時が、気付きの大きなチャンスなのですが、世の中の濁流、いいえ、激流はすごいです。その流れに飲み込まれていき、運命とやらに翻弄されたかのように、自らの人生の終焉を迎える人が少なくはないというのが、現実だと思います。その現実を踏まえて、私はあえて、この質問を投げかけています。
「なぜ、生まれてきたのだろうか。そして、なぜ死んでいくのだろうか。」
素朴な疑問です。
これから、色々な考えられないことや、予期しないことが起こってきますから、そういう時にこそ、私は、一人でも多くの人が、自分のこれまでを振り返り、「自分というもの」、そして、「自分の生き死に」を、本当に考えてほしいと思っています。
大変だ、どうしよう、どうしたらいいのか、という思いが、心の大半を占めることは分かりますが、その時に、心のほんの片隅にでもいいですから、自分は何かを間違えてきたのかもしれないと感じ始めることができたらと思っています。何を間違えてきたのか、今はまだ分からなくても、これらの出来事は、自分に対して何かを告げてくれているのではないか、そういうふうに、目の前の出来事を見て取っていければいいと思います。
ところで、素朴な疑問のひとつである「なぜ生まれてきたのか。何をするために生まれてくるのか」ということを、あなたは、今まで考えてみたことがありますか。
生きていくのがやっとだ、今日一日命が繋がればいい、そのような過酷な状況の中で生を受けた人達も、世界中には多く存在します。そのような人達は、生き延びていくことに必死で、なぜ生まれてきたのかということに思いを向けることなど、ほとんど不可能でしょう。
生まれてきて、そして、戦争、貧困、飢えなどで、あっけなく死んでいきます。短い生涯を苦痛のうちに過ごしていきます。それでも、人間は生まれてくるのです。生まれたいという強い意志があるからです。
戦禍に苦しみ、貧困に喘ぐ人達がいる一方で、多くの人間は欲望の限りを尽くしていきます。より快適な生活を望み、経済発展を遂げていくことが、人間の幸せな未来を築いていくことだと信じています。
また、人間は、世界の平和と繁栄を叫びながら、戦争を続けていくという矛盾の中にあります。
武力戦争はもちろんのこと、経済戦争も、戦うことに違いはありません。
戦いのエネルギーを吐き出しながら、世界に平和がやって来るはずはありません。そして、本当の意味での繁栄もありませんが、人間は、そのことにまだ気付いていない有様です。
なぜ、戦うことをやめないのか。
それは、自分達がなぜ生まれてきたのか、何をするために生まれてくるのかという根本的なことを忘れ去ってしまって、自分の外に思いを向けるようになったからです。
しかし、矛盾の中にある人間の「心」は、「自分の本質」「根本」「本当の自分」というものを求めています。「それらに帰ろう、帰りたい」と願っています。
だから、どのような過酷な状況であろうとも、生まれてくるのです。そして、間違って存在していることを、互いに、知らしめるのです。自分達は戦いのエネルギーを蓄えてきた愚か者だと、自らに示していくのです。それが、武力戦争はもとより、様々な戦争という形となっていきます。
そうです。人間はみんな、これまで、自分の根本、つまり人間の本質を忘れ去ってきました。それで、幸せになれるはずがないのです。従って、次から次へと気付きの促しがあります。次から次へと起こってくる問題は、気付きの促しです。そして、それらは、人間の本質は何かという気付きがなくては、どのような問題も解決できないことを示してくるのです。
例えば、地球温暖化という問題ひとつを取り上げてみても分かります。
それは、人間の貪欲な思いが、形となって、私達に返されてきているものです。しかし、今はまだ、私達は、自分達が出してきた思いが、自分達に返ってきていることに気付けない状態であり、分からない状態です。
私達は、地球環境の悪化に、手をこまねいているわけではありません。環境に優しく、地球をこれ以上汚してはいけないと、国家レベルでも話し合いが持たれています。
私達、一人ひとりが何かできることから始めましょうと、身近な生活の中から、エコ、いわゆる省エネやリサイクルを呼びかけています。
しかしながら、そういう方策というのは、ほとんど焼け石に水のような気がします。そのようなもので追いつけないほどのスピードで、さらに地球温暖化は進んでいくと思われます。地球温暖化は、気付きを与える意識の現れだからです。
本当は、地球温暖化を考える前に、なぜ、生まれてきたのか、何のために今があるのかと、それぞれ一人ひとりが、それぞれの環境の中で考えるべきなのです。そういうことが、地球温暖化を本当に考えていくことに繋がっていくのだと、私は思っています。
話をもう少し、身近なところに戻します。
あなたは今、何らかの職業に就いておられますか。
あなたにとって、仕事とは、一体何でしょうか。
生活の糧を得るためのものという位置づけから、我が仕事は天職なり、私の人生そのものだという人もいます。
それは、自分の夢でした。夢が現実になって、私は今、この仕事に打ち込んでいますという人もいます。
私は、この仕事を通して、夢や勇気や元気を人と共有していると思っている人もいます。
いずれにしても、それらの人達は、仕事を中心に自分の生活が回っています。自分の人生の時間の大半は、仕事というものに費やしてきた、費やしているということでしょう。もちろん、時間だけではなくて、エネルギーも然りです。
その人達は、仕事を通して、様々な場面に遭遇して、色々な人との出会いがあって、自分の成長があると思っておられるでしょうし、実際にそうだと思います。
苦しいことも辛いこともあるが、反対に達成感や充実感もあって、仕事を抜きにしては、自分を語れないというか、人生を語れないという人も多いと思います。
また、今度は、あなたの家族について、少し触れてみましょう。家族でなくても、あなたの一番身近にいる人でもいいでしょう。
人は、一人では生きられないと、よく歌の文句にもありますが、人は人を求めます。人の優しさとか温もりを、知らず知らずのうちに求めていると思います。
その人達と幸せな時を刻んでいきたい、健やかにみんな仲良く楽しい人生を過ごしていきたいと、自分と自分の家族や、大切な人とのささやかな幸せと、ともに生きる喜びを願うというのは、人としてごく普通のことだと思います。
このように、自分の人生を思うときに出てくるものは、仕事、家族、夢、その他に何があるのでしょうか。
総じて、人は、生きている中において、何か自分が生きている証を求めているのではないかと思います。
非力ながら、何か社会のお役に立ちたい、何か自分のできることがあればと、社会奉仕、いわゆるボランティアの活動をする動機も、実はそういうところにあるのではないのでしょうか。人が喜んでくれるのを見て、また、自分が嬉しくなり、自分を必要としてくれている人達がいることを確認することで、自分という存在を模索しているのだと思います。
こうして見てきますと、夢を実現するために、自分の人生があると思っている人、人に夢や元気を与えることで、自分の人生を満喫し、自分もまた、その人達から元気や活力を与えてもらっていると思っている人、仕事を通して社会に貢献していくことが自分の人生であり、そして、一線を退けば、自分の培ってきたノウハウで、再び社会と接点を持っていくことが望ましいと考えている人、あるいは、あと残された人生は、自分のやりたいことを続けて、生涯現役ですと元気な人、自分の家族を大切に、家族の幸せが私の幸せだと考えている人など、様々ですが、そういう人達は、言ってみれば、ごく普通の善良なる人達です。それなりに、それぞれの分野、持ち場で、日々、前向きに頑張っておられると思います。
だからと言って、それで、その人達の人生は、本当に幸せな良い人生なのでしょうか。
私は、これが言いたかったのです。
それでは、自分はなぜ生まれてきたのか、何をするために、今ここにいるのかという答にはなっていないことを、言いたかったのです。
仕事、家族、夢、生きがいなどをメインに、本当の人生を語ることなどできないことを、知ってほしいのです。
それらは、人生を知っていくための補助的なものだということに、気付いてほしいのです。
しかし、人間は、目に見える形の世界を本物だと思っています。自分をはじめとして、形あるものが現実だと思っています。従って、それらをメインに考えるのが普通なのです。
そして、形を握ります。形にこだわります。とらわれます。形に優劣を付け、上下を付けていきます。「優」や「上」を手に入れるために、どんどん自分のエネルギーを外に向けて出し続けます。
努力とか、頑張りとか、挑戦という名目で、エネルギーを外に向けます。
でも、そうではないのです。
それらのものを手に入れるために、あるいは、手に入れたものを温存し、さらに発展させるために、自分のエネルギーを使ってきたのは、そうすることによって、自分のエネルギー、つまり、自分自身を感じていくためだったことに気付くべきなのです。
自分を誇示したり、自分に酔いしれたりするのではなくて、しっかりと自分の中で、自分のエネルギーを感じていく、見つめていくために、それらの形を自分の周りに作り上げたと気付くべきなのです。
しかし、これは難しいです。大概は、その形を誇り、悦に入る方向になってしまいます。作り上げた形の世界に固執していきます。思いをかけ、エネルギーを注げば注いだ分、いいえ、それ以上に、その世界に縛られていきます。人生設計を立派に築き上げた人ほど、実は人生の本当の目的に気付いていくことは、難しいかもしれません。
なぜ、あなたは生まれてきたのか。もう、お分かりですね。
自分を知るためです。自分のエネルギーを知るためです。
仕事や夢に懸命になってもいいのです。色々と工夫しながら、また、目標を設定しながら、エネルギーを傾けていくことが間違っているのではありません。
また、安らぎとか生きがいを家族、家庭に求めていくのも分かります。家族に何か問題が起これば、一緒になって対処していくのは、ひとりの人間として、一家庭人として普通だと思います。仕事とともに夢とともに、そして、家族とともに生きることは、何も間違ってもいないし、おかしいこともありません。
ただ、それらが、あなたが生まれてきた意味の最終目的にはならないことを、知るべきなのです。言うならば、それで終わりではなく、また、それがすべてでもありません。
この人は、こういう形の中で自分を見ていき、また、あの人は、こういう中で自分を見ていき、自分のエネルギーを感じていくのです。そういうことなのです。形の世界は、そのように活用すべきなのです。言うならば、仕事も家族も、自分を見つめていくための教材です。それらのものを通して、自分を知っていくための大切な教材です。
大切な教材だから大切にしていきます。
生まれてきた本当の意味が分かったなら、教材を無責任には扱いません。大切に思い大切にしていくことと、形(教材)を握り、形(教材)にこだわることとは違います。
形が表れ、崩れていくことに一喜一憂しながら、ただ時が過ぎていくだけでは、本当のことが見えてきません。教材を活かせなければ、残念ながら、人生は失敗だということになります。
形は有限です。早い話が、いずれ人間は、肉体の消滅する時を迎えます。病気か事故か、あるいは、犯罪に巻き込まれて一命を落とすこともあります。そして、天変地異が起これば、一瞬にして多くの命が失われていくでしょう。
人間は、生まれてくれば、死んでいくことは当たり前だと思っていますが、同時に、人間は、形の世界に生きていると思い込んでいますから、形あるもの(肉体)が無くなってしまえば、すべて無くなってしまうことも当たり前だと思っています。
そして、形あるもの(肉体)は有限で、つまり、自分は有限だから、自分の時間も有限だと思っています。
従って、その有限の時間の中で、何かを成し遂げるために頑張る人や、ひたむきに自分を見つめていこうとする生き方は、いいなあとか素晴らしいと感じるかもしれません。そのような人生に、そのような人達から、感銘を受けるかもしれません。
しかし、自分達の時間は無限、自分達は無限なのだと知れば、そうは思えないと思います。
自分達の時間、自分達を、有限だと思うか、無限であると思うかで、生き方の姿勢は変わってくるはずです。
言い換えれば、自分を「肉」という形として見るか、「意識、波動、エネルギー」として見るかで、全く見方が違ってくることにお気付きでしょうか。
人間は、政治や経済、文化、教育、医療、宗教、その他様々な分野で活動しています。言うまでもなく、自分達を肉という形としてとらえて、その形の幸せと繁栄を追求していくために、それぞれの分野の中で、日夜頑張っているのです。
頑張っている人間社会に、次から次へと様々な出来事が、なぜ起こってくるのでしょうか。そこに何か深い意味があるとは思えませんか。
事件や事故や自然災害が起こるたびに、人間社会はもちろん、動物、植物、その他の生態系や、山、川、海、その他の自然界は、その姿を変えていきます。
ただし、動植物などの生態系や自然界は、意識の流れを感じ、知っています。その流れを素直に受け入れて、その流れとともに悠然と存在していきます。
知らずにいるのは、人間社会だけです。姿を変え、崩れていくことを受け入れていくことができないのです。
人間は、己が偉い生き物です。
意識の流れと反対の方向を向いて、自分達の幸せと繁栄を求めていこうとしても、所詮は、空しい結果に終わってしまうことにまだ気付くことができていない段階です。そこのところが、私達人間と、その他のものとの歴然とした違いです。
形は有限、しかし、私達は無限。この切り替えが、私達に求められています。
そのために、今までがありましたし、これからもあります。
ただし、それにもタイムリミットがあります。
いつまでも、これまでのような同じ循環の中でとは行きません。循環を断ち切っていく強い衝撃が必要となってきます。
それが、これからの時間の中で起こってくるということでしょう。


 

第三章 自作自演の芝居

 

幸せな人生とは、どのような人生を言うのでしょうか。
あなたは、今、幸せですか。あなたの幸福感を語ってみてください。
はい、私には、由緒正しき家柄があります。
はい、私には、賢い頭があります。
はい、私には、健康な身体があります。
はい、私には、美貌があります。
はい、私には、お金があります。
はい、私には、かけがえのない家族がいます。
はい、私には、楽しい仲間達がいます。
はい、私には、やりがいのある仕事があります。
はい、私には、自分を打ち込めるものがあります。
はい、私には、特別に何もありませんが、日々感謝して暮らしています。生かされている喜びを感じています。
まだまだ他にもあるかもしれませんが、大体、幸せの基準は、このようなところでしょうか。重複しないと満足感が得られない人もあれば、ひとつで充分に幸せだと思う人もいます。
人は、みんな幸せを求めています。
幸せになりたいという願望があります。
そして、幸せの基準は、人それぞれにあるというのが一般的ですが、本当の幸せを知っている人は、ほとんどいないというのが現実だと、私は思っています。
みんな、幸せになりたくて生まれてきます。しかし、幸せになれなくて死んでいくのです。
幸せになりたいのに、幸せになれなかった……。
幸せになるにはどうすればいいのか……。
何があれば、幸せになれるのか……。
心の疑問に答えるべく、人は、それぞれの条件に見合った環境を選んできます。
自分の設定通り、幸せの条件を選んできます。
また、あるいは、あえてその条件を外して、環境を設定してくるかもしれません。やはり、そうではなかったことを確認するために……。
とにかく、自分の設定した中で、自分自身が演じていくわけです。人はみんな自分の中の思いを、自分の肉を通して表面に出してくるのです。
例えば、人生を芝居に見立ててはどうでしょうか。
人は、自分に芝居を書きます。そして、その芝居を演じているのは自分であり、その芝居を観ているのも自分です。
いわゆる自作自演のドラマを、自分自身が鑑賞しているというふうに、自分の今を眺めてみませんか。
自作自演の芝居のテーマは何か。
それは、幸せと喜びです。
いつも、そうなのです。幸せと喜びが永遠のテーマです。
そのテーマで、舞台設定を変えていくのは、何度設定を変えても、そのテーマをクリアできずにきたからです。
いつも観客から拍手喝さいが受けられない役者は、何度も何度も厳しい稽古を重ねて、再び舞台に立つのです。
芝居は、ある時は大金持ちに生まれついたのに、最後は没落してしまうとか、ある時は美貌を振りまいて、蝶よ花よだったけれど、結局は、その美貌で身を滅ぼしていくとか、そして、ある時は……、というふうに、幾パターンもあり、その都度、涙と笑いの悲喜こもごも、盛りだくさんです。
そのように、今の自分の人生も、その中のひとつのパターンだと思えないでしょうか。
そして、芝居だから、楽しみながら続けていけばいいと思いませんか。一生懸命に、楽しみながら、千秋楽を迎えていけばいいのです。
ただし、どんなに一生懸命に演じ、また、楽しみながら演じていても、その芝居を通して伝える真のメッセージに行き着くまでは、残念ながら、カーテンコールはありません。
どのような舞台も、自分に対してのメッセージを託して、その幕が上がります。もちろん、幕が下りるまで、自分が主役です。観客に対してメッセージを送り続けられる役者は幸せです。観客は、下手でも、一生懸命演じている役者の姿に、何とかエールを送ろうとします。
しかし、なかなかそのエールは役者に届きません。
役者は、いつも自分の役柄にすっぽりとはまってしまって、脇目も振らずに、その役を演じ切ろうとします。
「あなたは、今度はこの役で、私からのメッセージを受けてください」と念押しされても、役が決まって、舞台背景が決まって、衣装を身に纏ってしまえば、その芝居の中に溶け込んでしまうのです。
本当は、役者には、芝居を通して伝えたかったメッセージがありました。そして、観客も、役者から本当に聞きたかったメッセージがありました。
そのメッセージとは、芝居のテーマでもあります。
伝えたかったもの、そして、聞きたかったものは、互いに共通するところなのだと思います。
人生を芝居に例えてみましたが、今もまた、世界中で、そのテーマをクリアすることの難しさを感じながら、たくさんの芝居の幕が下りていくのだと思います。
私は、このように、幸せな人生とは、自分に託してきたメッセージを、自分自身が、正しく受け止めていくことができる人生を言うのだと思います。
自分に託してきたメッセージとは、人それぞれに違うというものではないと思います。そのメッセージはみんな同じはずなのです。
まず、そのメッセージに出会うことが難行苦行です。
次に、ようやく出会っても、それを正しく受け止められるかどうかの難関が待っているのです。
しかし、このように難行苦行の道のりも、今は過去形になりました。
一人芝居を演じ続けて、長い、長い時間が経ちましたが、幕が上がり、幕が下り、あと何度それが繰り返されるのかというところまで、ようやく漕ぎ着けたからです。
いいえ、カーテンコールはもう直前に迫っていることを、私は確認させていただいています。
「役者が役者でなかったことを知った。私は役を演じているに過ぎなかった。」
そのことを知った人の人生は、役にばかりに思いが傾くことはもうないでしょう。必要以上に役作りに熱心になるということはないと思います。しっかりとメッセージを受け取りながら、役を淡々と演じていくだけだと思います。
このように、自分にいただいた役を通して、自分というものを知っていく喜びに出会うことが、喜び幸せの人生だと、私は思っています。
そして、一人芝居を演じてきた役者が、ようやく唯一の観客と手に手を取ることができるのは、役者冥利に尽きると思います。
この役をもらって登場してきてよかった。ありがとう、ありがとうとなっていくと思います。
それは「役者人生、万歳」と、思わず叫んでしまうほどの喜びではないでしょうか。
そこで、
自作自演の芝居を通して、自分が自分に送るメッセージを正しく受け取ることが、喜び、そして、幸せの人生の登竜門
と位置づけましょう。
その登竜門を通過するためのステップを、これからご紹介していきたいと思います。
正しい手順を踏んでいけば、人生とは、自作自演の芝居だということも分かるし、それを通して、本当の人生、本当の喜び、本当の幸せに辿り着くと、私は確信しています。
「本当のあなた」が、道案内をしてくれるのです。


 

第四章 正しい瞑想の仕方

ステップⅠ 自分のエネルギーを知る

 

ここからは、本当の人生、本当の喜びと幸せを知っていく正しい手順について、ともに辿ってみましょう。
冒頭にありましたように、私達の本当の姿は、意識、波動、エネルギーであり、目に見えません。目に見えている自分というものは、本当の自分ではありません。
私達は、本当の自分とは、いかなるものなのかということを知っていくために、目に見える肉という形を持ってくるのです。生まれるということはそういうことですが、肉体を持って生まれてくれば、それが自分だと思ってしまいます。
そして、その自分のために、つまり、自分ではない自分(偽物)のために生きていくのです。頭と心と身体を使っていきます。
しかし、そのためだけに、頭と心と身体を使うというのは、間違いなのです。偽物の自分のためにのみ、それらを使ってしまう間違いを犯していきます。間違いは間違いの結果を出してきます。その結果を見て、自分が間違ってきたことが感じられれば、それでいいのですが、それは大変難しいことです。
自分には、偽物のために、それらを使ってきた覚えがないからです。逆に、一生懸命に頑張ってきたのに、なぜこうなるのかと思うのが普通です。従って、自分にとって不都合な現象は、どうしたって喜びとしては受け取れないのは、当たり前です。喜びとして受け取れないほうが自然であって、不都合な現象だと思ってしまっているのに、それを喜びで、つまり、プラスに感じていこうとすることには、無理があります。そこには、偽善の匂いを感じます。無理や偽善は、もちろん、マイナスのエネルギーです。
このように、私達は、マイナスと映るものが、実は、自らに間違いを教えてくれていると受け取ることができずに、マイナスをマイナスとしてとらえてしまうから、さらに、マイナスのエネルギーをどんどん上乗せしていくという繰り返しを延々と続けてきました。
「本当のあなた」が出すエネルギーは、もちろんプラスですが、私達は、自分ではない自分(偽物)を自分だと思い込んできましたから、私達から出るエネルギーは、みんなマイナスなのです。
その自分達から出るマイナスのエネルギーを、今の自分の肉体を通して知っていくことが、まず、第一のステップです。
そのために、「母親の反省」(注1)や「他力の反省」(注2)を繰り返しながら、自分の「心」を見ていく作業を重ねていきます。
汚い、無知とエゴと欲で固まった自分の「心」の世界を、ただ見ていくことをしていきます。
セミナー当初には、そのお手伝いにチャネリングというものがありました。チャネリングは、いわばカンニングです。ヒントです。それを参考にして、本来は、自分で自分の「心」を掘り下げることをしていかなければなりません。
しかし、これは、なかなか難しい作業です。
このような思いを使いました。あのような思いを広げてきました。それは、実は、言葉の上での反省の域を超えていないのです。その程度で「心」を見てきましたと、いくら言ってみても、自分の奥底に流れる凄まじい思いを確認するまでには至らないというのが、本当のところです。
ですから、その次の段階として、私は、セミナーの時間に、「現象」という時間を設けさせていただきました。
私は、その時間に、それぞれ皆さんが自分の蓄えてきたエネルギーを、実際にその肉体で感じていただこうと思いました。
現象の時間は、一種の瞑想の時間です。私、田池のほうに、心を向けるとどうなるのか、それはセミナー会場でしか味わえない体験なのです。
セミナー会場には、実際に、私の肉があります。肉があるのとないのとでは違うことを、学んでいただきたかったのです。
おそらく、皆さんもセミナーという時間と空間は、自分自身にとって、なくてはならない大切なものだったと感じてこられたと思います。
ところで、本書は『意識の流れ』と同様の手法で、順次出来上がっていきます。つまり、塩川香世さんが、私、田池留吉と心をひとつにして、私の意識の世界と同じ方向に思いを向けながら、パソコンのキーを叩いて出来上がっていきますが、ここから先は、時折、彼女の体験も交えながら、話を進めていきたいと思います。
私は職業柄、「田池先生」と周囲の人達から呼ばれてきました。先生は、いわば私の固有名詞のようなものです。
その延長とでも言うのでしょうか、三十年余りにわたり開かせていただいてきましたセミナーの中においても、田池先生が私の通称となっていました。皆さん、「田池さん」と呼ぶよりも、「田池先生」と呼ぶほうが、どうも、しっくりと行くみたいです。
私が、皆さんの頂点だという意味で、「先生」と呼ばれているのではないことだけは、くれぐれも知っておいてください。
さて、三十年余りにわたり開かせていただいてきたセミナーですが、このセミナーというのが、実に奇妙なものだったのです。と言うのは、セミナーに集ってくる人達はほとんど全員が、「先生」を慕って尊敬の意を表して集ってくるのではなくて、その反対で、「田池を殺してやる」「お前なんか死にさらせ、消え失せろ」という思いを、その心に抱え持ってやって来るのです。
私は、そのような人達と、長い年月、学びをともにしてきました。その間、大きなトラブルも発生しなかったというのは、不思議と言えば不思議ですし、奇妙なセミナーでした。
もちろん、塩川香世さんも例外ではありませんでした。
私が、彼女を知ったのは、一九九七年前後に開催された沖縄セミナーの時だと記憶しています。ただし、それまではもちろんのこと、それ以後もある時点までは、失礼ながら、私の中には彼女の印象がないのです。
とにかく、セミナーが沖縄で開催された時でした。しかもそれは、セミナーの時間外の出来事でした。
彼女が、私の前を通り過ぎるときに、言った言葉があります。
「〇〇さんのほうが、ずっといいわ。」
〇〇さんとは、彼女がセミナーに集ってからも、ずっとお慕い申し上げてきたある教団の教祖でした。
そのことを、後日、彼女に聞いたところ、
「先生に向かって、そんな失礼なことを言った覚えはない」とのことでした。
しかし、私は、はっきりと記憶していました。記憶していたのは、その言葉はもちろんですが、その時に彼女から何かを感じたからだと思います。
それからです。私は彼女一人に注目していったわけではありませんでしたが、私の肉が知らず知らずのうちに、事あるごとに、何か声をかけていったらしいのです。声をかけたらしいとしか言えないのは、私自身に記憶がなかったからです。
彼女からの後日談です。
「あんた、おとなしいな。」
「いい服着ているな。」
「私は、あんたに嫌われているな。」
「あんたのお母さんはあの人か。あの人はあんたの叔母さんか。」
私にすれば、たわいもないようなことでしたが、彼女の心の中は、「くそ田池」の連呼だったようです。
要するに何でもよかったのです。一声かけることで、私のほうに思いを向けるというか、意識を向けるという試みだったのでしょう。
もちろん、セミナーに集っていない人にこのようなことをしても、どうなるものでもありません。むしろ、変なことを言う人だなと敬遠されるのが落ちだと思います。
セミナーに集っていない、いわば、学びをしていない人達は、失礼ながら、「人間の本質は意識だ」という知識すらありません。当然、「母親の反省」や「他力の反省」を通して、心を見ることもやっていません。そういう人達にとっては、どうでもいいようなことでも、少々、学びをかじっている人にとっては、私の発する言葉というのは違うのだと思います。
彼女は、そろそろ私の一言に、反応する時期に来ていたということだったのでしょう。
私の一言に反応するということは、あなたの中の意識達は素直だということを示しています。
皆さんが、それぞれの心の中に作ってきた思い(意識達)が、ムクムクと湧いて出てきているのを、私が、少しお手伝いをさせていただいて、皆さん自身に感じていただきたいという私の思いを、中の意識達は素直に受けてくださいます。
私は、「肉」というものは、鎧、兜の類だと思っています。人間は、鎧、兜を身に纏い、決して自分の本心を勘付かれないように用心深く「肉」という自分を守っていこうとします。
それでは、中の意識達が苦しくてたまりません。
何とか自分達の存在に気付いてくれるように、意識達は活動を始めるのです。鎧、兜を纏っているあなたに、そして、それが自分だと思っているあなた自身に、何らかのメッセージを送り続けます。
身体の不都合や経済的な不都合、そして、家族の不調和や、複雑な人間関係を通して、自分達の今の苦しい状況を知らせようとします。
私は、「心を見てください」と伝えてきました。
「あなた自身の思いを、外に向けるのではなく、中に向けて、あなたの思いを、どんどん見ていってください。あなたの声を聞いてあげてください」と申してきました。その方法を、セミナーを通して、学んでいただいた次第です。
そして、セミナーに集い、心を見るという実践を重ねていけば、やがて、ほとんどの人は敏感になっていきます。
この辺りで鎧、兜を少しだけ脱いでみようかと思ってくるのです。
まず、自分のエネルギーを知っていく前段階として、肉の鎧、兜を取る方向に努力してみてください。それをしなければならないでしょう。
それぞれにみんな、社会の常識や、風習、慣習、規律、規範、文化等の分厚い鎧、兜を装着しています。
まず、それを脱いで、少し身軽になっていくことです。
その他に、それを脱いだ自分の中身を知っていくことは、まだずっとその先の話です。
肉のそれらを装着したままでは、とても意識の世界というのは、何だかどこか遠い世界のような印象を持たれると思います。まず、そこのところを、少し緩めて、そして、まだまだ分厚い「他力の鎧、兜」を確認していく方向に進んでいくのが手順です。



ただ、ここで、勘違いされる人がいます。私は、非常識な人間になりなさいと言ってきたのではありません。
肉の生活を、おざなりにしてもいいとは言っていません。
例えば、一家庭において、夫には夫の、妻には妻の役割分担があります。親も子も兄弟姉妹も同様です。そして、一会社、一社会においても然りです。
そのあたりのバランスをいかに上手に取っていくかは、あなたの裁量です。やるべきことはきちんとして、その上で、社会常識等に縛られない世界を知っていくことが必要なのです。
そうは言っても、学びをしていくについて、なかなかスムーズに行かない場合もあります。家のしきたりや、その土地の風習などによっては、周りの人達の理解を得るには、時間を要する場合があるかと思います。そういう中で生活をしている人達にとっては、確かに学んでいこうとする環境は厳しいものがあるかもしれません。
しかし、それも、言ってみれば、あなた自身の選択の結果なのです。その中で、いかに喜びを見出していくことができるかです。あなた自身、私はやっていきますと、そう決めてきたから、今そのような状況に身を置いているのではないでしょうか。
そして、本当に学びをしていきたい、そのために私は生まれてきたのだと、心から感じていけば、案外難関だと思っていたハードルもクリアできるだろうと私は思うのです。そういうふうに、流れは流れていると思います。
それを、ただ欲で自分の思いを通してみても、プラスの結果は出てこないでしょう。
自分の思うように学びができないと思っている人は、自分は今、まだその状態にあることを厳粛に受け止めて、しかし、時が来れば一直線に進んでいけるように、準備をしていればいいのです。必ず周りの状況は整っていきます。
周りは、あなたを見ています。あなたの生活態度などから、いずれ、あなたの生き方を、何とはなしに理解してくれるのではないかと私は思います。
少し話がそれましたが、とにかく、学びに繋がってセミナーに集ってきた人達は、彼女のように、私、田池留吉の姿を見たこと、その肉声を耳にしたことは間違いのない事実です。ホームページだけ、あるいは本だけで、私を知っている人に比べると、そこは大いに違いがあります。
しかし、私はどこにでもいるような平凡な老人です。
彼女もそうでしたが、この人のどこにパワーがあるのか、意気込んでセミナーに来てはみたものの、拍子抜けされた人が多いのではないでしょうか。
「○○さんのほうが、ずっといいわ。」
彼女は、本当に正直に自分の感想を述べられたと思います。
私は、もちろん、そう面と向かって言われても、別に気に障ったわけでもありませんでした。
むしろ、彼女には、私に対して何の欲もなかったのではないでしょうか。
私に対して、助けてください、何とかしてください、パワーをくださいという思いを向けてこられる人が多い中で、ただ一心にこの学びをと思う思いが、そういう形となって、直接的に口をついて出てきたのだと思います。
学びの本質を探究していこうと、私に向かってくる思いを、真っ直ぐに受けさせていただくことが、私の喜びです。
それは、何も彼女に限りませんでした。
俗な表現をすれば、私の出した課題に食らい付いてきたのが、彼女だったのです。私の出した課題とは、もちろん、セミナーの中で皆さんにお伝えしてきた事柄です。ただ、欲だけでセミナーにやって来るのと、学びたいと思ってセミナーの回数を重ねていくのとでは、その結果が歴然としてきます。
そこで、一言。
学びを効率よく進めていく上での大きなポイントが、学びをするあなた自身の動機ということになります。
私は、最後まで、セミナーに集ってくる動機を確認してくださいということを、言ってきました。
学ぶ動機が違っていれば、いくらセミナーに集ってこられようとも、その成果を上げることはできないことを、もっと真剣にとらえてほしかったからです。
私は、皆さんがどのような思いで、自分に肉を持たせたのか、お母さんに産んでいただいたのかを、皆さん以上に感じています。だからこそ、このチャンスを十二分に活かしてくださいという私の思いがありました。
私が、チャネラー、チャネリングということについて、厳しく物申してきたのも、その思いがあったからです。チャネラーをバカにしてきたわけではありません。
なぜ、チャネラーという肉をあなたは選んできたのかということを、もっとしっかりと自分に聞いていってくださいと、私は思ってきました。
セミナーに来ていれば、どなたもいずれは敏感になります。つまり、チャネラーになるのは簡単なのです。ですから、セミナーの目的がチャネラーになることだとするならば、本当にお粗末です。
動機が違っていたり、チャネリング、チャネラーの次元に留まっていたりでは、自分の肉体を通して、自分の培ってきたエネルギーを知ることがあっても、次の段階には進めません。
同じところで足踏み状態です。いつまで、それを続けるつもりなのかということです。
私は、動機の見直し、チャネリング、チャネラーに対する思い違いの確認を、速やかにして、最初の第一歩を正しく踏み出していただきたいと思ってきました。
目先の目新しいことばかりに思いを向けていれば、セミナーに参加すれども進展はなしといったところに留まってしまいます。
そういう意味で、彼女は、正しく手順を踏んでこられたのでしょう。
当時、彼女は、まだ肉の鎧、兜をしっかりと身に着けていました。セミナーでは全くの鈍感でしたが、セミナーに来ていれば、やがて、敏感になってくるだろうと思っていましたから、私は楽しみにその日を待っていました。
それから、しばらく時間が経って、彼女をふと見ると、セミナーの闇出し現象の時間に、自分の叔母さんを足蹴にしているではありませんか。そうしていたかと思うと、突然自分の座っている場所から、すごい勢いで転び出てくるとか、飛び上がったかと思うと、私の指差しに逃げ回ったりして、自分のエネルギーをようやく自分で確認できる状態にまでなっていました。
そして、最後は、私、田池に向かって、すごい形相で向かってきていました。
このような状態になって、次があります。
ここまででしたら、セミナーに参加されてきた人達のほとんど全員の人が通ってきた道筋だと思います。
問題は、そこからです。
自分の肉体を通して、自分が蓄えてきたマイナスのエネルギーを知ったのです。では、そのエネルギーをどのように処理していくのか、まず、最初の一山を越える勉強をともにしてまいりましょう。
その前に、「母親の反省」と「他力の反省」について、簡単に振り返ってみます。反省とは、自分の言動を省みることではなくて、自分が使ってきた思い、広げてきた思いを振り返ることです。

(注1)母親の反省
自分を産んでくれたお母さんに対して使ってきた思いを、振り返ることです。ノートに書き綴るとか、パソコンに打ち込むとか、その方法は様々ですが、お母さんに対して使ってきた思いを、ありのままに吐き出すことが大切です。
具体的には、お母さんがあなたにしてくれたこと、してくれなかったこと、あなたがお母さんにしてあげたこと等、お母さんとの接触の中で、あなたの心に出てきた思いを、できるだけ思い出していくことを実践します。
お母さんを通じて、様々な自分の思いを知っていくと思います。お母さんとは不思議な存在です。お母さんというものは、大嫌いでもあり、大好きでもあるが、本当は大好きなのだという不思議な存在だと感じていかれることでしょう。
そのことを、別の表現をしてみれば、母親の存在は、自分の前に立ちはだかっている壁でもあるが、自分を大きく包んでくれている存在なのだと表現できるかもしれません。

(注2)他力の反省
他力信仰を重ねてきた人は、まず、その宗教遍歴を思い出すことです。なぜ、そうしてきたのかと、入門、あるいは入会した経緯を丹念に振り返るのです。さらに、何をそこに求めてきたのか。その教団あるいは教祖、指導者にどのような思いを向けてきたのか。これもまた、奇麗事ではなくて、実際の自分の心の動きを細かく見ていくことです。
お金をいくら使ったのか。労力は提供してきたのか。良いとか、悪いとかの判断ではなくて、事実だけを追っていくことが必要です。そして、他力信仰の延長線上に、この学びをとらえている心を、早く浮き上がらせることが大切だと思います。
神、仏、宇宙のパワーが好きな人は、この学びにも熱心に参加されるはずです。そして、その心はというと、旧態依然の人が多いというのも、実情です。
さしずめ、田池留吉という肉に対して向ける思いは、そうであると思います。崇める思いと見下す思いが裏表です。田池留吉という肉もまた、あなたの目の前に立ちはだかっている大きな壁ではないでしょうか。しかし、真実を心で知っていくには、その壁が消えていくことが待たれるのです。
他力の反省を通して、自分がいかに強くそのエネルギーをつかんできたのかということを、知っていってください。
あなたが心に入れてきた教祖、指導者等と、私、田池留吉との違いを、あなた自身の心で知ってくださいと、私は思っています。



ステップⅡ 母を思う瞑想と母の温もり

第一段階は、自分のエネルギーを心で知ること、その前段階として、肉の鎧、兜を少し脱いでみようと思うことを話してきました。動機についても触れました。
そして、第二段階とは、心で知った自分のエネルギー、つまり、自分自身を、どのようにしていくのか、ということです。
この第二段階において、非常に大切になるものが、母の温もりです。
母を思う瞑想を通して、自分の中に母の温もりを蘇らせていくことが必須条件です。「本当の自分」とは、その温もりに他ならないことを、心で知っていくのです。
しかし、これは、そう簡単には行きません。みんな温もりに背いてきた歴史が、どっかりと心にあるからです。
心を見ることをやっていない人には、それすらも分かりません。温もりに背いてきた歴史が、自分の歴史であるなどとは思いもしないことでしょう。
しかし、私の話を聞いて、実践を積み重ねていけば、偽物の自分、つまり、肉を自分だとして、自分の中で作り続けてきた思いの数々に、次から次へと出会っていきます。
温もりに背いてきたはずの思いの数々が、温もりを求めて、どんどんどんどんあなたに訴えかけてくるのです。それらは、肉の鎧、兜を脱ぐことによって、あなたの「心」に凄まじいエネルギーとして、響いてくるはずです。
しかし、それも、やがて自分の中に、「本当の自分」を確立する度合いにつれて、その凄まじいエネルギーは、収束の方向に向かっていきます。
いつまでも、そのエネルギーに振り回されることはないのです。消えてなくなるわけではないけれど、それによって、振り回されて自分を見失うとか、そのエネルギーをそのまま周囲にぶつけていくとか、そういうことはないはずです。
なぜならば、母を思う瞑想を通して、絶対的に信頼できる自分を心に感じるからです。偽物と本物との違いを、「心」で知るからです。
塩川香世さんは、その手順通りに進んでいった一人です。
ところが、そう手順通りにはいかないのです。
セミナーに集っていれば、ほとんどの人が敏感になります。
鈍感、つまり、自分のエネルギーが心に響いてこなければ、間違っている、凄まじいエネルギーだと言われても、実際のところ、分かるはずがないと思います。それは肉という鎧、兜を纏っているからであって、仕方のないことでもあり、当然のことです。従って、まず、それを緩めること、緩めて自分のエネルギーを自分の肉体にまで響かせること、つまり、敏感になることが望ましいのです。それがこの学びをしていく早道かもしれません。
そこで、問題となるのは、この学びに集う前より、心が敏感になっていた人達です。その人達は、自分の中の温もりを心に確立する前に、敏感な状態になってしまっている人達です。
ただ、敏感になりさえすれば、それでいいのかということになれば、それは違いますということを、その人達を実際にセミナー会場で目にされて、皆さん、勉強されたかと思います。
心は、敏感だけれど、闇に敏感であってというのでは、むしろ、鈍感な人よりも始末が悪いのです。
自分に自分が振り回されているのですが、振り回されていることも知らずに、また、知っていても、どうすることもできない状態の人は、難しいです。
ここで一言。
寝られない、食べられない、そのような状態の人は、まず、病院に行くことです。そこで、眠ることができるように処方してもらってください。しっかりと睡眠をとって、朝には起き、夜には寝てという自然のリズムを取り戻すことです。
まず、食事と睡眠をしっかりとって、生活のリズムを正すこと、これも、学びを進めていく上で、大切な要素です。
生活のリズムが乱れていては、肉を持ってする本当の仕事ができません。とりあえず、食べて寝ての、普通の状態にすることです。
そして、薬等で、少し肉も落ち着いた状態になったときに、改めて、しっかりと、リズムを乱す原因を見ていけばいいのです。そうすれば、心を見ることを妨げている自分に気付くはずです。心を見なければと思う反面、いや、見たくないと拒否している自分があり、見るな、見るなと脅してくる自分があることに気付くはずです。
四六時中、耳元で囁き続ける声を聞き、眠ることができないのは、大変な苦痛でしょうが、しかし、どうでしょうか。そういう状態になるにはなるだけの理由があるのではないでしょうか。自分の側に何か思い当たることがありませんか。
心が敏感な人は、難しい点も多々あり、大変ですが、しかし、私はそういう人ほど、本当に私が申し上げてきたことを実践していってくだされば、今はマイナス部分であるものが、反対にプラスへ転じていく可能性を大いに秘めていると思っています。敏感な肉をあなたは選んできた、このことをしっかりと自覚できるようであれば、敏感がゆえに苦しいことも、嬉しい、ありがとうに変わっていく喜びを味わえることは間違いないでしょう。正しい手順を踏んでいけば、肉、肉で凝り固まっている人達よりも、本当の幸せと喜びを心に広げていけます。苦しんできた分、変われば早いのです。
ただし、これは、実に厳しい道のりです。
そして、厳しい道のりというのは、この場合に限りません。自分が生まれついた場所とか、大人になって生活の拠点となった場所等、境遇如何によっては、なかなか本当のことを遂行していくには、難しい場合があります。
それぞれに、皆さん、ご苦労はあると思いますが、本当の世界を肉で知るチャンスがあった人達には、それぞれの場で、焦らずに、諦めずに、真摯な思いで、この道を歩いていっていただきたいというのが、私の心からの思いなのです。
世の中の濁流、いいえ、激流に身を置きながら、自分の中に真実を追究していこうとするのは、確かに難しいことです。
しかし、難しいからと、やめておくわけにはいきません。
自分のエネルギーを知れば知るほど、第二段階の課題をクリアしなさいと、矢のような催促を受けていかれると思います。
これから、否が応でも、自分と真向かいにならなければいけない場面に出会っていくと思います。
現に、すでに、難しい場面を想定してきたあなた自身です。なかなか真っ直ぐに真実の方向へ向くことができない障害を、いくつも用意してきました。
「なぜなのか。なぜ、自分は、そのようなものを用意してきたのか」
ということを、じっくりと自分の中で振り返ったことがあるでしょうか。もしかしたら、用意してきたという自覚すらなかったかもしれません。
本当に自分の心を見て、自分のエネルギーを心で知っていったならば、そのエネルギーは、「マイナスをプラスに変えていこう」「母の温もりで包んでいこう」という優しさの表れだった、それ以外の何ものでもなかったことを、きっと、心で感じていくことでしょう。そうなっていけば、障害が障害でなくなっていきます。それほど、自分は真実を求め続けてきたのだと心に感じるからです。
少々、話が脇道にそれましたので、また、元に戻します。話は、第二段階のことでした。母を思う瞑想を通して、母の温もりを知っていくこと、その思いを自分の中でどんどんどんどん感じていくこと、それが大切なことだという話でした。
自分が、マイナスのエネルギーばかりを流し続けてきた、流し続けていることに、まだ気付かずにいる場合は、その人は、凝り固まった状態ですので、もうしばらく時間がかかります。いずれは、そのことに気付かせる促しというものがあるはずなので、苦しみが表面化してくるまで、もうしばらくということです。
しかし、すでに、自分の「心」を見始めて、自分のエネルギーを感じ始めた人は、次のステップの促しがあります。
母の温もりを知らずのままでは、自分が蓄えてきたマイナスのエネルギーを収拾させることは難しいと、実感していきます。心が敏感になればなるほど、そして、心が敏感だからこそ、自分にとって、母の温もりが、何よりも大切なことだと感じてくるのです。
ところで、この母を思う瞑想というときの、母、あるいはお母さんとは、あなたが、日頃、目にしているお母さんではありません。
もっとも、最初は、あなたを産んでくれたお母さんを思って、静かに目を閉じる時間になるでしょう。
肉の鎧、兜を脱いで、心が少し和らいできた状態とはいえ、まだまだ肉、肉ですから、肉のお母さんから思いはスタートしていきます。
どなたも、瞑想の前に、母親に使ってきた思いを思い出して、ノートに書いてみるという作業を、一通りやっています。
その過程で、相当、理不尽な思いを母親に向けてきたこともあったと、感じておられるかもしれません。肉ではそうだと思います。
道徳とか倫理に反する思いが、母を思う瞑想で涙を流させるかもしれません。母の熱い思いが心に響いてきて、悪かった、申し訳なかったと詫びる思いが出てくるかもしれません。
それが、母を思う瞑想の全部だとは言いませんが、最初は、それでいいと思います。
そういうことを繰り返しながら、さらに母を思う瞑想を続けていけばいいのだと思います。
そうしていけば、最初のうちは、チラチラしていた肉のお母さんが、いつの間にか消えています。
どんどんそのような方向に進んでいけば、自分の中から出てくるエネルギーのすごさも感じていきますが、ただ嬉しいだけなのです。間違ってきた自分が愛しくて、さらにどんどん自分の中と出会っていこうと自然に思っていきます。
やがて、私、田池を見るあなたの目が変わってきます。
田池を肉でとらえる目から、私の世界を「心」でとらえる目に変わってきます。
田池の目を通して、自分の世界を見ることができるのです。
もちろん、どなたも最初は、凄まじい世界を感じていくはずです。
「田池、殺してやる」という、まさに狂った自分の世界を目の当たりにしていくのです。
最初から、喜び、ありがとう、嬉しいとはなってきません。ここで断っておきますが、「田池、殺してやる」というのは、〇〇を殺してやりたいほど憎たらしい、お前なんか消えてなくなれという類の、いわば肉としての感情ではありません。
まさに、それは心の叫びです。
「温もりに帰りたい」、本当の自分を求める心の叫びです。
だから、「田池、殺してやる」は、非常なる喜びなのです。
母を思う瞑想を通して、母の温もりを心に感じていけば、それは自然と心で分かります。そうすれば、私、田池の目を見るあなたの目が変わってくるのです。
ところで、他力のエネルギーを心に秘めたままの人は、私の目を真っ直ぐに正面から見ることはできません。
私の目を見なさいと言われても、幼子の目にはなれないのです。しかし、そういう人も、どうぞ、ゼロ歳の時の瞑想を、日々怠らずに続けていってください。
あなたにもお母さんに抱かれて、お母さんのおっぱいを吸っていた頃があったでしょう。ゼロ歳の時の瞑想とは、その時のあなたを思い出して、ただお母さんだけを思う瞑想です。
生まれたばかりの赤ちゃんは、何も思いません。ただお母さんに抱かれていることが幸せなのです。
そのような時間があったことを、あなたには記憶がなくても、あなた自身、あなたの「心」は覚えているのです。
さらに言うならば、たとえ、お母さんにただの一度さえも抱いてもらえなくても、お母さんのお腹の中にいた時があったのです。その時には、みんな間違いなく、お母さんの温もりに触れていました。
その時は、ただただ幸せだったのです。ただただ安らいでいました。お母さんを信じていたあなたは幸せだったはずです。委ねる喜びの中では、ただそこにあるだけで幸せでした。
そのような思いを、間違いなく、どなたも感じさせていただいてきたのです。これがあなたですよ、これが本当のあなたですよと、母の意識は、あなたが肉を持つたびに、伝えてくれました。
ゼロ歳の時の思いを思い出す瞑想をしていくことによって、あなたの中で、あなた自身が作ってきた他力の世界が、はっきりとその心に感じられるようになってきます。
他力の世界にがんじがらめの自分をはっきりと感じてくるのです。なぜ、田池の目をまともに見ることができなかったのでしょうか。なぜ、「田池、死ね」が本当の喜びに変わっていくことができないのでしょうか。心で分かってきます。
それは、半端ではないことを感じます。
半端ではない凄まじいエネルギーを抱えて、自分がこの世に出てきたことを痛切に感じていくことでしょう。
話は、そこから始まります。
自分は偉い、自分は正しい、間違っていない、立派に生きてきた、そのような自分を崩していくことが、喜びと幸せの道であることが、母の温もりを感じていくたびに、心に強く感じられることだと思います。
従って、母の温もりをないがしろにしている人達には、いずれその間違いが、自らに返ってきます。
母の温もりを軽んじて、自分というものは存在し得ないことを知っていくのだと思います。


ステップⅢ 母を思う瞑想と他力の反省

今世、どこかの宗教団体に所属してきた人は、なぜ、その団体に入ったのかという経緯から動機をしっかりと検証して、なぜ、他力信仰が間違いなのかを、自分の心で分かってくるまで、徹底的に自分の心を見ていかなければなりません。
また、今世はそうでない人であっても、みんな誰一人例外なく、神、仏や実体のないパワーを求めてきたことには違いないのです。
先祖祭りに余念のない人、占いやまじない、宇宙のパワーに興味がある人、オーラ、カリスマ、ヨガ、霊感、霊視といった言葉に惹かれてきた人などは、間違いなく他力一色です。
自分のルーツを探すという名目で祖先を遡る思いもそうです。
その他、他力のエネルギーは生活の隅々にまで入り込んできていると思います。
他力をやっていない人はいないと言ってもいいと思います。
拝んだり、祭ったり、祈ったりすることだけが、他力ではありません。お金を支えに生きている人も、立派にお金のパワーに牛耳られています。
そのような心の世界を、瞑想をすることで、つぶさに感じていくのです。ただ、その瞑想は、闇雲にしては大変危険です。
どのような場合でも、物事には、順番、手順があります。
あなた自身が温もりであることを信じず、信じられずでは、なぜ、他力が間違いであるのかが絶対に分かりません。分かるはずがないのです。
従って、自分が蓄えてきた他力(マイナス)のエネルギーを、その肉体を通して知っていっても、なお、そのエネルギーに牛耳られていくのです。同じことを繰り返していきます。
あなたが、本当に、母の温もりを「心」に感じたならば、「ああ、間違ってきました」と、「本当のあなた」に懺悔の思いが噴き上がってきます。
本来、その懺悔の思いというものは、あなたの中でつかんできた、作り上げてきた他力の世界を、本当に小さくしていくほどのエネルギー、パワーなのです。
しかし、なおも、そのエネルギーを上回る他力のエネルギーに牛耳られるというのは、どういうことなのでしょうか。
そういう意味で、あなたが感じてこられた温もりというものの実体を、よく見極めていくことが大切です。
とにかく、母を思う瞑想、そして、母の温もり、ここがしっかりとしていなければ、他力の反省は捗りません。
間違ってきました、申し訳ありませんと、どれだけ頭を垂れても、他力の何が、どこが、どのように間違っているのか、ということについての反省および懺悔には繋がってこないことを、もっと真摯に知っていただきたいと思います。
それほど、大変なのです。
私は「命懸け」という言葉を使ってきました。
簡単に、他力の反省ができて、心につかんだ他力のエネルギーから自分を解き放つことができるならば、三十年というセミナーの時間は必要ありませんでした。
しかし、大変だからこそ、やりがいがあります。大変だからこそ、ほんの少しでも間違ってきた自分に気付けば、嬉しいのです。
他力の心は根深いです。嬉しいと感じた思いは、嬉しいままでは済みません。嬉しいとそこで完結すればいいのですが、その嬉しさを、また、次の他力の心が、ぐっとせり出してきます。
「喜んでいる私を見てください。」
喜びが、なぜ己を表すエネルギーに変わるのでしょうか。それほど他力のエネルギーにがんじがらめなのです。
しかし、それでも、喜びなのです。
今世、がんじがらめの自分を知ったことが喜びなのです。
あなたは、心から、そのように思うことができますか。
どんなに道遠しの自分を感じても、見限らず、切り捨てず、諦めず、自分の現実と向かい合っていこうとする思いが、心の底に息づいていることを信じられますか。
その思いに行き着くことが、他力の反省です。
だから、他力の反省には、母の温もりが不可欠なのです。
母の温もりが、何度も挫折してしまいそうな他力の心に、優しく、時には厳しく促し続けてくれるのです。
温もりを捨ててきた自分と、温もりに帰ろうとする自分とが融合するのは、母の温もりの中でしかあり得ません。
本当に、温もりの世界、温もりの自分というものを感じれば、他力の世界がどんなにちっぽけなものなのかが、はっきりと分かります。そのちっぽけな世界を大きく素晴らしい世界だとして君臨してきた己の愚かさを、つぶさに感じます。
己の愚かさです。
骨の髄まで腐り切った己というものを、感じたことがありますか。
「私は自分を捨てました」と、本当の自分を捨てた自分の叫びが心に届いていますか。
他力の反省とは、すべてを崩していくことです。自分のすべてを崩していくことです。何もいいところはなかったのです。
自分を捨てた自分は、決して救われることはなかったのです。
今、ここにこうして、肉を持って、その事実を伝えていただいていることに、ただただ感謝の思いが湧き起こるだけです。
それでも、他力の心は、荒れ狂います。
「私を救え。」
「何とかしろ。」
「田池、我らを見捨てるのか。」
「なぜ、私を認めないのか。」
そのような思いが、次から次へと出てくるでしょう。
あなたは闇から闇へと、自分を葬り去ってきた現実を、これから目の当たりに見ていく覚悟ができていますか。
他力の根っこは、深いのです。
そのことを、しっかりと知っていくために、これからの転生が用意されています。
もちろん、用意しているのは、自分です。
自分が自分に用意している転生の中で、じっくりと他力の心を見ていくことを自分に決めています。
あなた自身、それほどの思いを自分は抱えていることを知っていますか。
母の温もりを少しでも心に感じて、そして、自分がその温もりを捨てて、求めてきた他力の道、他力のエネルギーを心で知っていったなら、どれほどの大バカ者の自分であるのか、分かってきます。分かってくるけれども、最初は、まだ自分の中で綱引きです。
自分が自分を脅してきます。
「田池に心を向けるな。向けたらお前を殺す。温もりなどくそっ食らえだ。何が温もりだ。誰がお前を幸せにしてやった。温もりなどで、幸せになれると本気で思っているのか。お前が私にパワーをくれと懇願してきたのだ。今更私を裏切るのか……」。言葉にすれば、このような類の脅しです。
また、あるいは、自分が自分を持ち上げてきます。
「あなたには偉大なる使命があります。あなたにはあなたのやるべき仕事があります。あなたが心に感じている世界は本物です。あなたが感じているものを、あなたを通して、皆さんにお伝えする時が、やがてやって来るでしょう。どうぞ、その時は臆せずに、堂々と皆さんのお力になってあげてください。あなたによって、救われる人が出てきます。」
「私は、田池留吉です」というところから始まって、このような思いが伝わってきたなら、さてどうでしょうか。難しいですね。
どこでどのように判断すればいいのでしょうか。しかし、受けているメッセージの中にどこか一点おかしいところがあるのです。もっともらしい中にも微妙におかしいところがあります。
第一に、偉大なる使命など、誰も持ち合わせてはおりません。人を救っていくことの意味も取り違えたならば、それは、教祖と信者の温床となって、その腐れ縁を断ち切ることはできません。
大体において、みんな、人を救うということを美談だと感じています。困った人の力になることが美徳のように思っています。
人の命を救うとか、今、困っている人の何かお手伝いをしてあげるとか、そういうことならば、何も問題はありませんが、人の心を救う、人の心を導いていくということになれば、これは全く事情が違います。
他力のエネルギーが蔓延している中にずっといたから、なぜ、心を救うことが間違っているのか、なぜ、心を導いていくことがいけないのかという根本的なことが、理解できなくなってしまっているのでしょう。
自分自身が今、どのような状態の中にあるのかを知らずにいるのです。自分に自分が踊らされて、完全なる上下関係、区別差別の中にあることが見えないのです。
心が暗く、苦しく、救ってほしいのは、自分なのです。その自分を捨て置いて、人の心を救う、人を導くとはどういうことなのでしょうか。
この学びに今世集い来る人、そして、本書のような類の書物に関心がある人の多くは、過去において神の言葉を聞いてきた、いわゆる霊能者であるとか、人の心を救い、人の心を導いてきた教祖であるとか、そういうことをしてきたと思います。だから何とはなしに、セミナーに心が惹かれる。あるいは、これだ、これしかないとセミナーに通い詰めるのです。
しかし、セミナーに集ってきたからいい、セミナーに通い詰めたからどうということではありません。
すでに述べてきましたが、問題は、あなたの動機です。あなたの動機は、あなたの心癖ということです。その動機を見る、動機を検証する中に、あなた自身の修正されなければならない心癖が、はっきりと出ているのです。
何ものにも優先して、セミナーに集ってくるというのは、形としては熱心かもしれませんが、それは、あくまでも形であって、そこから本当に正しい道(真実への道)を歩いているかどうかは判断できません。
とにかく、セミナーに集ってきた人達はもちろん、本書のようなジャンルの書物を読み漁っている人達の中には、たえ今世の肉とか肉の環境は、俗にいう霊能者とか教祖などというものから、かけ離れていても、一番犯してはならない大罪を過去に重ねてきた人が多いと思います。
それだけに、地獄の奥底を経験済みのはずです。
ましてや、私、田池留吉と肉で出会うということは、大変なことなのです。こういう表現をすれば、色々と曲解されるかもしれませんが、あなた自身が、本当の意味での敏感になれば、私の思い、私の言っていることがよく分かると思います。そして、私というものを、正しく感じていくことができると思っています。
私は、皆さんを、地獄の奥底から、決死の覚悟で這い上がってきた意識であると感じています。まだ、その自覚が薄い人も多いと思いますが、私はそのように感じさせていただいています。
そのことをしっかりと自覚されて、そして、自分の深い決意のままに、真っ直ぐに進んでこられたのが、塩川香世さんであると私は認識しています。
彼女に倣えとは言いません。人にはそれぞれのプロセスがあるからです。ただ、チャンスを活かすことが大切なのです。チャンスは、そうたびたび巡ってきません。
チャンスに決意する。決意すれば、後には引かない。他力の反省を続けていく中で、この思いを確認していってください。
他力の反省は、喜びです。喜びで、愚劣でどうしようもない自分と出会っていってください。
教祖様、何々様と崇め奉られてきた思いは、少々の反省では拭い切ることは難しいと思いますが、どうぞ、死ぬまで続けていってください。
そして、信者の立場も同じです。
「救ってください。助けてください。何とかしてください。パワーをください」。立っている場は違っても、向いている世界は、教祖と共通です。一蓮托生の世界にともに沈んでしまっているのです。教祖が暗黒の世界に沈めば、その信者もまた、暗黒の世界から出ることはできません。
従って、その心で、いくら、「田池留吉、田池先生」と思いを向けても、私は答えることはないのです。まず、その暗黒の中から半歩、一歩と出てくることです。


 ステップⅣ 母を思う瞑想と田池留吉を思う瞑想

母を思う瞑想の初期では、自分を産んでくれた母親に心を向けて、そこから母親の本当の思いを感じていくことをしていきますが、「母の温もりとは何か、母の思いとは何か」ということになれば、それでは少々物足らないでしょう。
その段階で感じている母の温もりというものは、母性に近いものだと思います。
自分を産んでくれた母親の優しさだとか、母に抱かれていた時の安らかな思い、委ねる思いなどは、母性に近い母の温もりということになるかと思います。
しかし、その温もりを心に広げていくことは、大変大切なことです。
母の温もりを信じられない心の状態のままでは、自分の中に作ってきた思い(闇)が、ある日突然、心の奥底からせり上がってきても、そのエネルギーをどうすることもできないのです。そうなってくると、たとえ、心を見よう、心を見なくてはと自分では思ってみても、そういう肉の抑止力は、心に噴き上がってくるエネルギーには、ほとんど効かないでしょう。肉体は、エネルギーに突き動かされていきます。思いもしないことを口走り、思いもしない行動に出るかもしれません。しかも、自分でもなぜだか分からないのです。
それは、ほんの些細なことから始まるかもしれません。
きっかけは何でもいいのです。
その時に、ふっとお母さんを思って、瞬間、母の温もりを感じられる人は、せり上がってくるエネルギーに愛しさを感じます。肉体を通して出すことは同じでも、もうすでにその時点で、エネルギーの質が変わっているのです。
出すことが喜びであり、出せることが喜びです。決して苦しみのままではありません。それが、母を思う瞑想を続けてきた効用です。
その母性に近い母の温もりを心に広げ、さらに、母を思う瞑想を続けます。自分を産んでくれた母親は、いつの間にか消えています。
母の思いが、もっと深く感じられるのです。
同時に、「田池留吉」に思いが向いていきます。「田池留吉」と呼びたくなるのです。心の底から「田池留吉」を求めてきた自分であったことを感じてきます。
あれほど、「死にさらせ、お前など消え失せろ、お前の目は大嫌いだ」と罵ってきた思いとは裏腹に、ただただ、「田池留吉」を求めている自分がそこにあるのです。
ここで、断っておきますが、「田池留吉」というのは、肉の田池留吉ではありません。
「田池留吉」というのは、ひとつの符号みたいなもので、例えば「田池留吉」を「タイケトメキチ」と表現してみても差し支えありません。
要するに、田池留吉の肉を通して感じられる、目に見えない私を、「田池留吉」あるいは「タイケトメキチ」と呼んでいるに過ぎないのです。その表現にこだわらないでください。
次の章で触れますが、田池留吉を思う瞑想の中で、あなたは、私の目を見ます。私の目を通して、自分を見ていきます。自分を見ることが喜びとなってきます。
どれだけの真っ黒であっても、自分の世界をはっきりと、しっかりと感じていけるのは、この温もりがあるからなのだと分かってきます。私の目は、真っ直ぐに一点をあなたに示していることが感じられるはずです。
私の目と出会う喜びを、あなたも存分に味わっていただきたいと、心より思います。



第五章 田池留吉を思う―私の目―

あなたは、私の目の中に何を見ますか。
私の目は、あなたの世界を映します。私の目の中に、あなたの世界が見えませんか。
「あなたの瞼を閉じて、そして、中の目を開けて、私の目を見てください。」
私は、セミナー会場で、このように言って、そして、瞑想状態になっていただきました。
瞼を閉じて中の目を開くとは、どういう意味なのか。そんなことできないと、大抵は思うものです。
しかし、一度やってみてください。
いいですか。
まず、ひとつ、ふたつ、みっつ……、丹田呼吸をして、あなたの瞼を軽く閉じるのです。
それから、瞼は閉じたままで、私「田池留吉」を思いながら、そして、少し意識的にあなたの瞼のほうに思いを向けてみてください。どうでしょうか。瞼の中にあなたの目があることを感じませんか。その感覚がありませんか。
その目を開けて、私を見る、私を思うのです。
その時々のあなたの状態により、様々な思いが心に伝わってきます。
私、田池の目は、いつもあなたの「心」の中にあります。
その目を通して、あなた自身が次から次へと飛び出してきます。素直なあなたがそこにいます。優しいあなたがそこにいます。あなたがあなた自身をたくさん感じていきます。
そうです、どんどんどんどん、私の目を見ながら、あなたの口を動かしてください。
あなたの口から、たくさんのあなたが飛び出てきます。
音を出すのです。心に詰まった思いを、音として吐き出すことは、その時点では大切なことでしょう。
音です。言葉にはならない叫びでもいいのです。それが、あなた自身の思いであって、日本人だから、日本語で語らなくてはならないことなどありません。
やがて、あなたの口から、デタラメ語が出てきます。私達は、そのデタラメ語を異語と呼んでいます。その異語が、自然に出てくると思います。
異語で、自分の思いを語ることをやってみてください。
肉では何を語っているのか分からずとも、そのようなことは一切気にせずに、口から出るがまま、流していきましょう。
そのために、あなたの目があり、口があります。
私の目を真っ直ぐに見ていくほどに、あなたが今いる場というものを、心に感じてきます。つまり、あなた自身を感じてくるのです。
「間違ってまいりました。申し訳ありません。」
涙とともに、思いが噴き上がってきます。何が間違っていたのか、どれだけ間違ってきたのか、心にどんどんどんどん響いてくるでしょう。
今世、私の目と出会った意識は、幸せだと私は思います。分かりますね。私の目と出会うということは、本当の自分を垣間見るということだからです。
しかし、本当の自分を垣間見ながら、やはり肉の目を開けて、肉の目を通して、自分の周りを見てしまうから、それは一瞬のうちにかき消されていくのです。
それでも、あなた自身は、意図的に時間を作って、瞑想を続けていってください。瞑想の中で、私の目と出会っていってください。悲しいときも、苦しいときも、落ち込んだときも、そして、嬉しいときは、なおさら、私の目と出会うように、日々精進してください。
私は、いつもあなたに答えています。
真っ直ぐにあなたの目を見て、真っ直ぐにあなたに答えています。どうぞ、あなたも、真っ直ぐに私の目を見てください。
幼子の目で私を見てください。


第六章 田池留吉を思う―私の異語―

私も異語を発します。
私の異語を聞いて、瞑想をなさいましたか。
異語を耳で聞いても、デタラメにしか聞こえません。
異語には、もちろん、文法はありません。主語があって、述語があってということではありませんが、異語を心で聞けば、あなたは納得されると思います。
少なくとも、あなたの中は納得しています。
私は異語で、あなたに語りかけています。あなたの中にいる夥しい意識達に呼びかけているのです。
このことは、どれだけ説明しようとも、決して頭で理解できるものではありません。
異語に反応しない人間のほうが、実はおかしいのです。人間の皮をかぶったという表現がありますが、まさにそれに当てはまると思います。
私達人間は、意識です。国籍がどこであろうとも、何が母国語であろうとも、私達には、共通の言葉があります。言葉というよりも、発信音、波長ということでしょうか。
その波長をきちんと受信できるものが、どなたの「心」にもあるのです。今は、それが、錆び付いているだけです。
とにかく、UTAブックさんのホームページに辿り着いた人達や、セミナーに集ってきた人達は、私の異語を聞くはずです。
最初は、何かさっぱり分からなくても、一回、二回……と聞いているうちに、その異語に答えてみたくなるときが、やって来ると思います。それからでも遅くはありません。
どうぞ、私と異語で語り合ってください。あなたの中のたくさんのあなたが、思いを語ることを待っています。
肉のあなたは、それを阻止することなく、ただ、なすがままに、口を動かしていればいいのです。何を言っているのか、何に答えているのか、そのようなことを詮索することなく、どんどん思いを吐き出すことを、やってみてください。
この学びは、実践が大切です。自分の身をもって体験することが大切なことです。
どうぞ、ご夫婦で、親子で、友達同士で、異語を通して、互いに学びを深めていってください。
もちろん、異語は、ひとりでもできます。いいえ、ひとりが基本なのです。自分(肉)と自分(意識)が、異語を媒介にして、通じ合っていく喜びを味わってください。自分の中がひとつだと感じていく幸せ、喜びを広げていってください。

私の異語を感じている塩川香世さんの感想。
異語は、リズムです。私にとって、異語は懐かしいふるさとのリズムです。私は、あのリズムを知っています。
私は、リズムに反応します。何とも言えない思いを感じています。必ず、必ず、帰ろう、私達のふるさとへ、その喜びの誘いを私の心は、しっかりと受け止めています。
異語で、私達は語り合うことができます。異語は私達の言葉です。この異語を肉を通して聞くことができる私達は、最高に幸せ者だと、私は、今心より思っています。


第七章 田池留吉を思う―私の指―

私の目も私の異語も、いわゆる波動です。
セミナー会場で、あるいはご自宅で、私の目を見て、異語を聞いて瞑想するという実践を積み重ねていただければ、それはお分かりいただけるかと思います。
そして、私の指も、実は、波動なのです。
実際には、私は、セミナー会場において、皆さんの言葉を借りれば、「指差し」という動作を行ってきました。
セミナー会場に集われた人達は、私の指に反応していく人達の様子を、目にされてきたと思います。また、自分自身も私の指に、何らかの反応を示されたことでしょう。
私は、そのたびに、「これはどういうことなのか。なぜ、こういうことになるのかということを、それぞれに考えてください」と申し上げてきました。
あの指先から、何かパワーを発しているのかと、いぶかしげに眺めてこられた人も多いのではないでしょうか。
同じようなものに、手かざしとか、ハンドパワーと呼ばれているものがあります。
肉眼で見れば、何だ、同じではないかと思われるかもしれませんが、それは似て非なるものであると申しておきます。
このことは、いくら言葉を重ねても、それぞれの心でしか分からないことです。
パワーはパワーであっても、マイナスとプラスがあるということくらいに留めておきます。
しかし、何も、私の指先から、そして目から、また、この口を通して語る異語からパワーを発しているということではないのです。
そう思う思いが、実は肉、形に留まる次元のものなのです。
私は、自分の思いを、きちんと正しい方向に向けているのです。正しい方向とは、自分の本質、本当の自分の世界です。その世界には、「肉の田池留吉」という存在はどこにもありません。従って、私から流れる波動は、プラスの波動です。プラスの波動は、プラスの仕事をしていくのです。
では、
プラスの波動とは何でしょうか。
プラスの仕事とは何でしょうか。
プラスだから良いことに違いはありませんが、その良いことというのは、一体何でしょうか。何にとって良いことなのでしょうか。
ここがポイントになってくると思います。
このポイントからずれていれば、人は、手かざし、ハンドパワーを貪欲に求めていくだろうと思います。
そこで、その回答の参考として、次に説明を加えます。
私の目や指を見たり、異語を聞いたりすると、その人の意識は、私のほうを向きます。私のほうに意識が向くと、どうなるのか、それは、例えば、私の指に反応された人ならば、はっきりと感じるはずです。
見たところは、叫び声が出るとか、転げ回ったり、走り回ったり、その人の肉体を通して、様々な変化を体験されていきますが、その様子とは裏腹に、大変嬉しいと感想を述べられます。
本当にどの人も、心の底から嬉しいという思いが湧き起こってきているようです。
なぜでしょうか。
まさに、そこには紳士淑女の姿はどこにもなく、口汚く罵り、無様な様子を露呈しているのです。それが嬉しいとか、お母さん、ありがとうとか、思わず言葉に出てくるのだから、その人自身も不思議だと思われていると思います。しかし、現実に、ご自分が体験されたことだから、不思議と感じながらも、どこかで納得されるのではないでしょうか。
とにかく、自分の身体を動かしているものが確かに存在します。しかもそれは、自分の中から突き上がってくるものなんです。これが私なのか、私のエネルギーなのかと驚きながら、納得されていくと思います。そして、驚きながらも、実際に自分は涙を流している、この涙は、一体何の涙なのかと思うかもしれません。
また、ある時には、煮えたぎる思いの底から、ああ、私は間違っていましたという思いが、どんどんどんどん湧いて出てくる体験があるかもしれません。ひとしきり、そのようなことがあって、それも徐々に収まってくると、何とも言えない喜びが、ジワっと心に広がっていくことも味わえるのではないかと思います。
その喜びは、心の開放感から来るものかもしれません。
自然に表情は和らぎ、目は生き生きと輝き、満面に笑顔が溢れてきます。
先ほど、私の「指差し」は、手かざしであるとか、ハンドパワーというものと、似て非なるものと申しましたが、その意味がお分かりでしょうか。
それらの発する源には、必ず、肉の誰それがあります。宇宙のパワーだと言っても、さて、そのパワーがどこからやって来るのかということが問題なのです。
しかし、その違いというものは、それぞれが、それぞれの心を見て、そして、私のほうに心を向ける瞑想を繰り返し続けていくことがなければ、到底分からないでしょう。
似て非なるものという意味を、心で知るためには、第四章にある手順を踏んでいくしかないのです。
そうやっていこうと、素直に真摯に思いを傾けていく以外に、本当の喜びと幸せを知る手立てはないことを、知ってください。


第八章 私は、アルバートと申します

私の今世の名前は、田池留吉でした。日本人として、男性の肉を持ちました。その肉を使って、私は、私の仕事をしてまいりました。
そして、私は、再び、肉を持ちます。
今は、二五〇年という数字が出ています。名前は、アルバートだと、そして、生まれるところはアメリカだということも出ています。
私は、本当はそのようなことは、どうでもいいと思っています。ただ、私が、もう一度肉を持って、今世私がお伝えしてきたことの、一応の完成を見ることは確かです。
言うなれば、三次元最終の時が、二五〇年後ということです。従って、そこに至る時間は、大変厳しいです。
肉の次元で言えば、大変な時を迎えていきます。すべてが崩壊していきます。
しかし、私は、崩壊が喜びであることを伝え続けました。
肉の生活を脅かし、肉の命を危うくする崩壊の時を経て、私達は、いかなる存在かということを、深く、深く考えていく道筋を通っていくのです。私、アルバートは、そのお手伝いをさせていただきます。私は、全宇宙の思いの表れなのです。
二五〇年後には、もちろん、私も、ひとりの人間として、苦悩の日々を送りますが、時間にすれば、それはほんの一時です。やがて、私は、自分に目覚めゆくのです。
今世の私は、時間を要しました。しかし、私も皆さんと同じように、今世の学習があります。従って、自分に目覚めゆく時間は早く訪れます。さらに、二五〇年後には、力強い友(フレンド)が、最初から出現してくれています。私はそのフレンドとともに、皆さんの意識の世界に呼びかけてまいります。
今世は、その一端をセミナー会場でお見せいたしました。
私達は、ともにこの真実を伝えるべく、アメリカの地で出会う段取りになっています。
その出会いは、衝撃的なものです。衝撃的な出会いにより、互いが互いの心に通信を交わしてまいります。その通信により、私達は、ともに自分に目覚めていくのです。
目覚めは速いです。目覚めは敏速に、世界中を駆け巡ります。
そして、より高度で純粋な意識の世界を、ともに学習してまいります。
人間の心の中は、荒れ狂っています。荒み切っています。何もかも限界状態なのでしょう。
そのような中に、今世セミナーに集われている大半の人は、また、肉を持ってきます。もちろん、その人達の心の中も同じように、疲弊しているのです。
どんなに財と権力を手に入れても、決して栄華は続かないのです。どんなに智恵を結集させても、また、どんなに祈りを捧げ、パワーを乞おうとも、崩れていくものは崩れていきます。その体験を経て集ってくる人達の心に、真っ直ぐに訴えかけていくことでしょう。
二五〇年後には、今のようなセミナーがあるわけではありません。しかし、真実が伝わるスピードは速いです。
人から人へ、迅速に伝わっていきます。そのスピードを加速させるものが、世界中に起こってくる天変地異の嵐です。
二五〇年後に肉を持つアルバートが、今このように語るということが、どうも腑に落ちないと思われる人であっても、先に示したような正しい手順で、この学びと取り組んでいかれたなら、そういう疑問は、いつの間にか消えていると思います。ただ、あなた自身が、形となって目の前に現れてきているものだけに、縛られている現実があるだけなのです。どこかで、その縛っているものを緩めることができたなら、あなた自身、今までとは全く違う世界を、あなたの心に感じていかれることを、私は約束します。
そうなってくれば、本当の喜びとか、本当の幸せとかを感じていかれることだろうと思います。
そして、さらには、あなたのこれからを感じます。限られた時間を超えた、無限の時間の中にあるあなた自身を感じられると思います。それは、何とも言えない至福感を、あなたに伝えてくれるでしょう。
「私は、意識でした。私の本質は喜びでした。私は消えてなくなるものではなく、永遠にある生命です。
長い時を経て、ようやく自分の本質に触れ、自分の本質に深く進んでいく軌道に出会えました。私に『意識の流れ』を伝えてくれた大いなる意識に、心からありがとうです。本当にありがとうございました。」
このような思いが、あなたの心の中からも、ふつふつと湧き起こることを、私は心待ちにしています。


第九章 転 生

転生、つまり、生まれて、そして死ぬということ、その転生があることを信じている人も、信じていない人も、世の中にはおられますが、転生はあるのです。
人間は、転生をします。転生をしてきました。もちろん、どれだけの転生を重ねようとも、人間の本質は変わることはありません。人間の本質は、意識です。
意識が、肉という形を持つことが、俗にいう誕生です。
そして、肉という形を置いていくことが、俗にいう死亡です。
生と死の区別は、肉があるかないかだけです。
もちろん、肉を持つ、つまり、生まれてくるということには、大きな意味があります。
肉を持つということは、自分を修正する唯一のチャンスだからです。自分の修正のために、肉、形を持ってきたけれども、修正どころか、さらに傷、歪みをつけてしまうことを繰り返してきたのが、転生の歴史でした。
従って、これまでの転生は、失敗の連続でした。失敗作が山積みされているのです。名を馳せ、歴史上に残ると評されても、肉という形を残して戻っていく世界は、暗黒の世界に他なりませんでした。
肉を持って、そして、肉を置いていく間に、自分の本質、自分の本当の姿を知ることができた人間は、過去において存在しませんでした。
厳しい修行をして、それこそ瞑想三昧の日々を過ごしても、真実を知っていくことはできなかった、本当の自分との出会いを実現することができなかったのです。
なぜ、そういうことが言い切れるのでしょうか。
それは、私は、目に見えない世界を本物とする土台に立っているからです。私の基盤が肉にはないからです。
私は、いかなる高僧、名僧、悟ったとされる人であっても、その人を肉として見ずに、その人の意識の世界に思いを向けています。その意識の世界を感じれば、自ずと答は、出てくるのです。
生まれ変わり死に変わることを信じてきた、あるいは感じてきた人も、永遠の生命、永遠の時間である自分が、本当の自分であることに行き着くことはなかったのです。
自分の中心棒に触れることなく肉を持ち、そして、肉を置いていく循環の中で、それぞれに、これこそが真実の世界だと思い込んできたに過ぎなかったのです。
数々の転生は、みんなあなた自身です。生まれてくる時代、場所により、姿、形は違えども、あなたの中身は変わることはありませんでした。
本当の自分という中心棒に、偽物の自分を転生のたびごとに巻き付けてしまいます。
今世は、その巻き付けた偽物の自分を取りましょうということを伝えさせていただきました。
「偽物の自分を取っていくのが、あなたの仕事ですよ。巻き付けることは、もうやめていきましょう」と言ってきたのです。
そして、当然ながら、肉体を維持する時間には限りがあります。その限りある時間の中で、何をなしていくことが本当のことなのか、私は、自分のすべてを賭して、お伝えしてきたつもりです。
限りある時間の中で、自分の本質に触れることが、どれだけの幸せであり喜びであるのか、その幸せと喜びの自分を復活させてくださいという一念が、私にあるだけでした。
もちろん、自分の本質に触れるには、先に示したように、正しい手順を、焦らずに、たゆまず真摯な思いで踏んでいくことが必要です。
「今世は、それぞれが、失敗の連続であったそれぞれの転生から学んでいってください。学んでいくために、今世の出会いを持たせていただいているのです。」
どうでしょうか。このような思いが感じられませんか。
出会いとは、何と何、誰と誰の出会いを言っているのだと思いますか。
「人間は、みんな間違った循環の中にありました。その循環の中から飛び出ることが必要なのです。間違った循環をしてきたから、転生は苦しみとなってきます。そして、その苦しみから解脱することが、幸せへの道であるといった間違いを、さらに重ねていくのです。
確かに間違った循環の中にあった転生の数々は、失敗の連続です。しかし、その循環から飛び出た瞬間、それは、すべてプラスに転じていくのです。
数々の転生は喜びでした。これらがあったからこそ、今の私に繋いでくることができました。」
自分の本質に触れた喜びが、塩川香世さんをして、このように語らせていることもまた、私は感じているところです。



第十章 幸せの道へまっしぐらに

さて、私は、喜び幸せの人生の登竜門とは、自分が自分に託してきたメッセージを、正しく受け取ることができることだと述べました。
その自分が自分に託する、あるいは送るメッセージとは、もうお分かりかと思いますが、自分の本質に出会ってください、本当の自分と出会ってくださいというものです。
そのメッセージを正しく受け取るための手順を紹介してまいりました。
ここで、さらに念押しではありませんが、もう少し、筆を加えたいと思います。
先に紹介しました手順は、生まれ変わり死に変わりの、いわゆる数知れない転生の中で、それぞれの「心」に染み付いてしまった汚れ、垢を丹念に落としていく作業です。
私は、この作業を、私の言葉で、「自己供養」と表現させていただいてきました。
お母さんから肉体をいただいて、この世に生まれ出てきた目的、いわば、人生の目的は、私は、この「自己供養」をするためだと、お伝えしてまいりました。
「自己供養」というのは、私の造語です。辞書にない言葉です。皆さんが、よく耳にされる先祖供養というのは、世間一般に通用する言葉です。
自分達の幸せと繁栄のために、ご先祖様を大切にする、ご先祖様に手を合わせ一家の繁栄を願うという先祖供養は、太古の昔から受け継がれてきたことです。今でこそ、その思いはやや薄らいできたとはいえ、家族に何かあれば、浮かばれない先祖の魂、霊魂が原因だから、それを鎮めなさいと言われれば、その気になる人もまだまだ多いと思います。
世間一般ではそうでしょう。しかし、私は、先祖供養をするよりも、自分の供養をしなさいと申してきました。浮かばれないのは、自分自身ですよと伝えてきました。
ところで、浮かばれない先祖の霊魂が、自分達に災いを起こさないように先祖を供養するということが、何か胡散臭く下らないとしている人でも、霊感商法に引っかかる場合があります。これを飲めば、食すれば、そして、パワーを注入すれば、たちどころに身体の不都合が解消されて元気になることを、心のどこかで期待して、大枚を積んでしまうのでしょう。
少し考えれば、そんなバカなことがあるはずがないと思うことも、簡単に引っかかり騙されてしまうというケースが、跡を絶たないのはなぜでしょうか。
人生の目的、つまり、何のために生まれてきたのかということを、取り違えているならば、自分を幸せにする方法が分からないから、あれかこれかと色々と情報を集めて渡り歩くのです。結局は、その方法を、外に求めてしまいます。原因を外に求め、解決策もまた、外に求めます。
極端な話ですが、それで、本当に幸せになり、喜びを感じ、安らぎの人生を送ることができるのなら、たとえ大枚を使おうともいいかもしれません。しかし、そのようなことは、百パーセントないと思ってください。
そのことを、それぞれの心でお分かりいただきたいのです。人生の目的を違えれば、決して幸せにはなれないことを、はっきりと知っていただきたいのです。
なぜならば、人間は意識だからです。人間の本当の姿は意識であり、肉という形ではないからです。
いくら身体が元気であっても、また、自分達の一家が繁栄し、会社や社会が潤うとも、そのようなものは、一瞬にして崩れ去るものであることを知っていかなければならないでしょう。
人間が、肉を携えてという時間を自分に用意したのは、その肉のためではなかったのです。
しかし、肉、形が自分自身であると思っているのが人間だから、当然ながら、人生の目的は、その肉を中心に考えます。
肉を中心に物事を見ていくか、それとも自分の意識の世界を中心にして、自分の中身を修正する方向に、その時間やエネルギーを使っていくかで、存在していく意味合いが全然違ったものになっていきます。
どちらが、幸せの道をまっしぐらに行っているのか、そのことがこれからの時間の中で、はっきりと示されていくでしょう。
もうすでに、その兆しはあります。
人間社会の様々な分野で歪みが生じ、様々な事件の勃発とともに、人間の心の醜さ、すごさ、愚かさが白日のもとにさらけ出されています。どれだけ形の世界に幸せと喜びを見出そうとしても、次から次へと形の世界は、崩れていくのです。
同時に、生態系も自然界も、その姿を変えていきます。
そのように、目から耳から、そして、身体全体で、それらの変貌を、しっかりと確認していくようになってくるのでしょう。
自分達が描いてきた幸せも喜びも、ことごとく崩れ消え去っていく体験を経て、ようやく、自分達は、地獄の道をまっしぐらに突き進んできたことを、知っていくのだと思います。
私は、今ここに、幸せの道へまっしぐらは、肉、形を本物とする思いから、「心」で感じる世界を本物とする思いへ、一八〇度変わることであると、明言いたします。
それぞれが、本当の自分というものに出会うことが、幸せの道なのです。そして、それ以外には、何もないのです。
地獄の道を、このまま進んでいきますか。それとも、方向転換をして、幸せの道へ進んでいきますか。それぞれに問われるときが、遠からずやってまいります。
地獄の道とは、幸せと喜びを感じた瞬間から、さらなる苦悩が始まっていく道です。地獄でも幸せと喜びは味わえます。
それは儚くて薄っぺらなものですが、確かに、一瞬は幸せかもしれませんし、喜びかもしれません。しかし、それは決して長続きはしません。長続きはしないから、また、次を求めます。求めて、思い通りのものを感じることができたならばいいのですが、そうはうまくいかないのです。そうすれば、そこに不満や攻撃の思いが出てきます。その思いは、どうでしょうか。決して、幸せな思いではありません。それでは、確かに感じた幸せと喜びは、一体何だったのだろうか、私は幸せなのか喜びなのか、それともそうではないのか、分からない状態だということになりませんか。
それでもいいから、その一瞬の幸せと喜びを味わいたい、味わっていくことが、自分の人生だと言うならば、どうぞ、そのままやってみてください。
努力して頑張った結果、事態が変わったように見えても、自分の思いが変わらなければ、その根本の腐った部分は、変わらずに残り、そこからまた、新たに腐敗が始まっていくことを、自分自身の体験から学んでいくということになるかと思います。
もちろん、日々の生活は大切です。あなたの肉は、あなたにとって、大切なものです。本当の自分との出会いの足がかりになるものだからです。肉がなければ、真実と出会うことはありません。その意識の世界は、闇に沈んだ状態です。
そのことを、しっかりと自覚されて、日々の生活のリズムを整えていってください。
肉を使って、本当にしなければならないことが分かってくるから、しかも、それは自分にとって大切なことだと分かってくるから、しっかりとした自覚があれば、日々の生活のリズムは整ってくるのです。
真実を知っていくには、まず、肉を持つことです。そして、あえて言うならば、肉としてのある程度の安定がなければ、心を見るとか、瞑想をするとかの作業も滞りがちになると思います。肉としての安定とは、金銭面、健康面、周囲との関わり具合といったものです。
しかし、肉の安定度が高いから、真実の世界を深めていくことができるということでもありません。肉が安定すれば、安穏と暮らしてしまうことが多いでしょう。その上で胡坐をかいているようでは、何のために生きているのかということです。
肉を持つことは第一条件ですが、その安定度が高ければ、肉にのみ傾くし、低ければ、とてもとても心を見るまでには至らないというのが、肉を持って、真実の世界を知っていく難しさです。
そのように考えれば、本当の意味で、学びを深めていくというか、意識の世界を広げていく時間は、やはり限りがあります。そのタイミングを逸すれば、肉の思い云々では難しい部分があります。物事には手順があるように、旬とか適時とか、やはりそういうものが、意識の世界にもあるのではないかと、私は思っています。
もちろん、軌道修正は、いつでもできます。
人生の目的は、自分の意識の世界の修正です。つまり、「自己供養」であることを知ったならば、その時点で、淡々とやっていけばいいのです。
ただ、地獄の道をまっしぐらに進んでいた軌道を修正するということですから、強い決意を中心に、体力、気力等々が不可欠だということは否定できないというところからも、時間には限りがある、タイミングを逸すれば云々だと言っているのです。
頭で知ることと、「心」で知ることの違いを、日々の生活の中から学んでください。学べるように、自らの計らいの中にあることを、知っていってください。
そして、幸せの道をまっしぐらに突き進んできてください。
心よりお待ちしています。



第十一章 正しい瞑想を通して、母の温もりから、 
「母なる宇宙」へ思いを広げよう

「母なる宇宙」という言葉をつかまないでください。
私は、母の温もりとずっと繋がっている世界が、「宇宙」であることを表現しているだけです。
「母なる宇宙」は、私達が帰っていくところ、私達のふるさとだと理解しておいてください。
先に示した、ステップⅠからⅣを手順通りにやっていけば、やがて、自分の方向が定まってきます。心の向け先が、少しずつ修正されていくと思います。
その過程で、心に響いてくる思いがあります。
それを言葉にすれば、「宇宙」ということになるのです。
私達と宇宙は切り離すことができないのです。私達は宇宙だからです。「私達は宇宙」というのは、おそらく大抵の人には、唐突なことだと思います。従って、今はまだ、自分の中でピンとこない人もあるかと思いますが、あまり気にせずにいてください。
しかし、学びというか、私の指し示す方向に、正しく、そして、忠実に向き、本当の意味で、生まれ変わりたいという思いが、心の底のほうから湧いてくれば、その方向に、宇宙という言葉というか、感覚があるのを、実感してくると思います。必ず、そうなってくるのです。そうなってきたときに、あなたの心に、「私達は宇宙」という言葉が、ごく自然にスムーズに響いてきます。
宇宙を感じなければ、それが心に響いてこなければ、真実は分からないというのではなくて、真実の世界を感じていけば、自然と宇宙を感じ、宇宙が心に響いてきて、「ああ、私は宇宙でした。私はアルバートでした」となっていきます。
何も、それは特別なものではありません。本当の私達は偉大なのです。それを、間違って歪めてきたのは、私達自身でした。
そのことを、私は、今という時間に、肉を持って伝えにきたのです。肉を自分だと思ってきた意識に、肉、形の世界を土台にして、パワーを求め続けてきた意識に、それは間違っています、正しい方向に向いてくださいと伝えにきました。
ただ、それと同時に、私は、他力の反省が自分の中で捗っていない人が、宇宙に心を向けることの危険性を、これまでに何度も伝えてきました。
さらに、今は、私、田池留吉の肉がない状態なので、これまで全くの他力的に、私の肉に救いを助けを求めてきた人達、私に認めよと迫ってきた人達は、これからが大変です。しかし、安心してください。私の今世の仕事はきちんと終了しています。今世の伝えるべきことはすでに伝えてあります。そして、もちろん、意識の流れは、留まることなく、すべてが宇宙に向かって流れていますので、あとはそれぞれにお任せして、私は、来世の250年後を待つということなんです。
頭脳を誇ってきた人間にとって、その範疇で理解できない事柄が、地球を含む宇宙空間に起こってまいります。
天変地異は天変地異であっても、今、地球上のどこかの地域で起こっているような規模の比ではありません。
形あるものを崩壊させていく天変地異のエネルギーは巨大です。そのようなエネルギーは、形ある世界が本物とする立場からすれば、全くのマイナスでしかありませんが、真実の方向から天変地異のエネルギーをとらえれば、それは大いなる喜びなのです。それは、ともに帰ろうという思いの表れだからです。
自分の中の間違ってきたたくさんの自分との出会いを経て、そして、その自分達から、限りない喜びの思いを感じて、ともに真実の方向へ、歩み出していっていただきたいと思います。
母を思う瞑想を重ねることによって、本当の自分(宇宙)との出会いを果たしていってください。
本当の自分(宇宙)へ帰る道が、私達の本道です。
本道を外れた生き方、存在の仕方では、決して、幸せになれないことを、重ねてお伝えしておきます。
「本道を歩く、本道に生きる、それは何を意味しているのか。今、私は、本当の人生を生きていないのか。」
この回答は、それぞれのこれからの時間の中で、必ず、自分に響いてきます。
それが、これからの二五〇年、三〇〇年の時間の出来事です。必然的に、その時間は、天変地異を伴います。天変地異とともに自らの問いかけに、自らが答えていく計画です。
肉を救うとか、肉の心を救うというのではなくて、本当の自分に目覚めるために、あえて自ら厳しい場面を設定してくることが、自分に対する限りない愛、優しさであることに、一人でも多くの人が気付いていただきたいと思っています。


第十二章 再び、田池留吉です

今世、私と出会い、セミナーでともに学んでくださった私の大切な仲間達、そして、肉との出会いは残念ながらありませんでしたが、本を通して、あるいはホームページを通して、真実の世界を訪れてくださった仲間達、本当にありがとうございます。
私の喜びは、この真実一路の道を、一人でも多くの人が、ただひたすらに歩んでいっていただきたい、歩んでいかれて、「先生、私達夫婦、親子、友達、みんなみんな今、幸せです」という思いを、あちらからこちらから感じさせていただくことに尽きるのです。
私は、みんなが幸せになる道を、一生懸命、誠心誠意、お伝えしてきたつもりです。言葉足らずのところもありました。説明不足のところもありました。
しかし、私の思いは、ただ一点を指し示しているのです。
自然に、口調は厳しくなりますが、私には、他意はありません。昨日まで、全く反対の方向を向いていても、今日、たった今、私のお伝えしてきた方向に、一生懸命、自分に誠実に、自分が一番切望してきた方向に向こうとしてくだされば、私は、それでいいのです。
しかしながら、その方向を自分の中で定めるのは、決死の覚悟が要ります。私は、「命懸け」でやってくださいと申してきました。簡単なように見えて、どうでしょうか。
また、ここで、セミナーについて言及させていただくことは恐縮ですが、皆さんとともに過ごさせていただいたセミナーは、私にとりましては喜びの時間と空間でした。本音を言いますと、私は死ぬまでセミナーをやり続けたい心境でした。
皆さんの喜びの笑顔に出会うことが、私の喜びだからです。しかし、いつまでも、そうは言っておられません。
私は、セミナーを、文字通り命懸けで進めてまいりました。
また、セミナーを開催する以上は、元気で皆さんとともに学んでいきたいという思いで、やってまいりました。
私は、何とか分かってほしいという肉の思いで苦しむことはありませんでしたが、やはり難しいものなのだなあという、率直な感想を持っています。
それはそうだと思います。何億年、それ以上の時間を経て、そして、数え切れない転生の中で付けてきた心の癖、他力の思いは、凄まじいエネルギーとなって、それぞれの心に今もなお蓄えられています。
わずかの年数で、それが見事に変貌するとは思っていません。今世には、今世の意味があります。そして、タイムリミットの三〇〇年には三〇〇年の意味があります。どうぞ、それぞれのプログラムに忠実に、この流れと合流されることを、それぞれが心に刻んで、これからの時間を使っていってください。
幸いなことに、UTAブックさんから本が出版されたことによって、新しく学びの仲間に加わった人達を対象にしたセミナーも、開催させていただきました。
その人達には、充分にとは行きませんが、一応、学びの趣旨およびその方向を感じていただいたと思っています。あとは、しっかりと本を読んで、日々の実践を通して学んでいっていただきたいと思います。
自分を変えていこう、自分を本当に見つめ直していこうと心から思ったなら、その思いは、必ず形となって現れてきます。その形を通して、自分の心から出てくる思いを、どうぞ、真摯に受け止めていってください。どのような思いも、大歓迎です。間違って存在してきた自分が、堰を切ったように出てくるのは、大きな喜びなのです。
こんな自分もあった、あんな自分もあったと喜びで大きく手を広げて迎え入れてあげてください。
私には、今現在、肉という形はありません。私は私の意識の世界へ帰っています。その意識の世界から、喜びと温もりの波動を流し続けています。私には、肉があってもなくても同じでした。私の世界では、生も死もすべてが喜びなのです。
私は、本当の私を知っています。本当の私が、田池留吉というひとつの肉を持ってきたのです。名前など何でもよかったのです。ただ、私が肉を持つことに大きな意味があったことを、私は伝えます。
肉の次元からは、私というものを分かることはできません。私の言っている内容の本筋を理解するには、私と同じ場に立たなければならないでしょう。しかし、今世は、意識の目覚めをいただき、私達は、もちろん、すでに幸せの道を、一歩、一歩、歩んでいる次第です。
私が、亡くなってからでもいいのです。「先生、ありがとうございました。私は、私達は、今ようやく幸せの道を歩き始めたところです。これから、焦らずにたゆまずに、そして、自分に誠実に、一歩、一歩、歩き続けます」と、心の底から言えるようになっていただければと、思っています。
私の本質は喜びです。また、田池留吉という肉も最高に幸せ者であったと思っています。幸せの道を歩む仲間の輪が広がっていけば、これに勝るものはありません。どうぞ、あなた自身、幸せなあなたと出会っていってください。


おわりに

「最後は瞑想です」、「正しい瞑想をしましょう」というテーマで語らせていただきました。いかがでしたでしょうか。
心を見るという実践を重ねてこられたならば、「最後は瞑想です」、「正しい瞑想をしましょう」ということは、なるほどそうだと納得されているかと思います。
ただ、気がかりなのは、本文にある私の目を見る、私の指を見るという点です。その点につきましては、私、田池留吉との出会いがない人達には、少々残念と言わざるを得ません。しかし、そういう人達も、UTAブックさんのホームページから、私の異語は聞くことができます。
『意識の流れ』と本書をまず読み、私、田池留吉に会いにいこうと思っていただけたなら、どうぞ、NPO法人UTAの輪のセミナーにご参加ください。もちろん、セミナー会場には、私、田池留吉の肉はありません。しかし、私は、意識の世界から、真実の波動、エネルギーを流し続けています。百聞は一見に如かずです。どうぞ、セミナー会場で、皆さんとともに学んでいただければ幸いです。
文中にも書かせていただきましたが、地球人類は、これから未曾有の体験をしていきます。もうすでに、世界各地でその兆しはありますが、まだまだそれは、文字通り兆しであり、序の口です。
人類は、これから未曾有の体験を経て、ようやく自分達の間違いに気付いていく流れの中にあります。否が応でも、その流れは、自分達の目に耳に、そして、心の中にドーンと真っ直ぐに迫ってきます。
自分達の存在を根本的に覆すような状態の中に自ら身を置き、そして、そこから人類は、必ずや本来の自分達の姿に蘇っていくということです。
私は、それを「意識の流れ」とお伝えしました。
どうぞ、このことを参考にされて、一人でも多くの方がこの「意識の流れ」を、ご自分の心で感じ始めていただける今世であってください。そして、一人でも多くの方が、正しい瞑想を通して、私達と同じ方向に歩みをともにしていただきたいと、心から思っています。